No.1
コンタリーニ, G ( CONTARINI, Giovanni ) 

「 日本を図示した最初の印刷された世界地図 1506年 無題:布パネルは、プトレマイオス地理と読める (The first printed World map to show Japan 1506 Untitled: Textual panels read: Geographia ptholemei... (Facsimile)) 」 
63×42(cm) 1506
【解説】: この重要な地図は、1922年に初めて発見され,英国図書館(BL)のコレクションである。これが、唯一発見されて現存する1枚である。 この地図は、扇形すなわち円錐形投影法図による優雅な銅板の彫版で、ヴェネチアかフィレンツェで印刷された。フランシスコ・ロウズリの彫り、コンタリーニのデザインで、この地図は16世紀初頭コロンブス直後に世界の一つの道標を示す世界地図である。 地図上に初めて世界の東と西の地域の関係が描かれた。アメリカは、依然として東アジアの延長部分として表示され、中国の1地域に付けられたマルコ・ポーロの名前であるタングット(タングート)と呼ばれた。南北アメリカを繋ぐ部分は描かれておらず、キューバの西の沿岸線は描かれていないが、例外としてジパングリ島(日本)が単一の長円の島としてあり、これが、日本を表す最も初期のものの一つである。コンタリーニは当時の多くの同時代人と同じく、注記にコロンブスの1902-04年の最新航海について、また金を求めてチアンバへ到達したことを記述している。これはおそらくポーロのチャンパ、現在のコーチシナを指しており、このことは、コロンブスの発見は依然として誤解をもたらしていることが明らかである。 これは、1926年大英博物館が作成した詳細な文を伴った複製である。

No.3-1
ボルドーネ, B ( BORDONE, Benedetto ) 

「 最初の独立して印刷された日本の描写 1528年 日本 (The first separate printed depiction of Japan 1528 Ciampagu) 」 
15×8.5cm(cm) (1528)1534
【解説】: ボルドーネの有名な島の本、「世界島輿誌」に出た単独の日本を描いた最初の地図で、1528年にヴェネチアで初めて出版された。 チアパングと呼ばれた日本の地図は、事実上日本を独立して示した最初のヨーロッパの地図で、そのため日本地図コレクションの一里塚をなすものである。 この地図は、日本を様式化した一つの島の見本として、その首都チアパグとして示している。島の見本は、マルコ・ポーロに基づくもので、それゆえに16世紀初期のポルトガル地図以前の日本のものとして、おそらく最も良くできた見本の一つであろう。 この見本は1534年版から取られている。地図を囲む文は、これ以降の版では組み直されている。この地図帳はエーゲ海およびギリシャの7枚の見開き地図を含んでいる。105枚の地図は、西インド諸島並びに東南アジアおよび極東の初期の詳細地図をはじめとする当時世界で知られていた全ての島を図示している。 非常に重要な画期的地図で、日本の地図コレクションの礎石である。

No.3-2
ボルドーネ, B ( BORDONE, Benedetto ) 

「 最初の独立して印刷された日本の描写 1528年 日本 (The first separate printed depiction of Japan 1528 Ciampagu) 」 
15×8.5cm(cm) (1528)1534
【解説】: ボルドーネの有名な島の本、「世界島輿誌」に出た単独の日本を描いた最初の地図で、1528年にヴェネチアで初めて出版された。 チアパングと呼ばれた日本の地図は、事実上日本を独立して示した最初のヨーロッパの地図で、そのため日本地図コレクションの一里塚をなすものである。 この地図は、日本を様式化した一つの島の見本として、その首都チアパグとして示している。島の見本は、マルコ・ポーロに基づくもので、それゆえに16世紀初期のポルトガル地図以前の日本のものとして、おそらく最も良くできた見本の一つであろう。 この見本は1534年版から取られている。地図を囲む文は、これ以降の版では組み直されている。この地図帳はエーゲ海およびギリシャの7枚の見開き地図を含んでいる。105枚の地図は、西インド諸島並びに東南アジアおよび極東の初期の詳細地図をはじめとする当時世界で知られていた全ての島を図示している。 非常に重要な画期的地図で、日本の地図コレクションの礎石である。

No.5
ミュンスター, S ( MUNSTER, Sebastian ) 

「 重要なルネサンスの新世界の地図 西方・インドに関する新諸島図 (An important Renaissance map of the New World Tabula novarum insularum, quas diveris respectibus Occidental & Indianas vocant.) 」 
34×25.5(cm) 1550頃
【解説】: この重要で影響力をもったアメリカ大陸の地図は、初めて1540年版のプトレマイオス「地理学教程」のミュンスターの改定版に出た。 プトレマイオスの「地理学教程」の最新作品の部に現れた世界地図と同じく、ミュンスターはその地理製作の多くを、ヴェラッツァノおよびカルティエの報告に基づいていた。この事は、ヴェラッツァノがチェサピーク湾をインド洋と混同したため、狭い地峡のある異常な形をした北アメリカとなった。さらに北は、カルティエのセントローレンス上流と東部のグレートレイクの探検が、北西航路に対する信奉を引き続き助長した。 南米の東沿岸は、ヴァルトゼーミュラーの初期の地図と類似した投影法図で表示され盗用された同じ小さな飾り模様で完成されている。 その西に、日本は、「ジパングリ」としてポーロの見本と同じ一つの島が、インド諸島の7448の島々と、ポーロの中国と共に表わされている。マゼランの「ヴィクトリア」号が太平洋に描かれ、前記世界地図と同じく、「太平洋」という名称が初めて印刷地図に表された。 重要で影響を及ぼした初期のアメリカ大陸の木版地図である。

No.11
キサトゥス, R ( CYSAT, Renwart ) 

「 初めてイエズス会が印刷した日本地図 1586年 偉大な新発見の有名な日本諸島(複製) (The first printed Jesuit map of Japan 1586 Der grossen namhafften neufundlicherfundnen Japponischen Inseln (Facsimile)) 」 
41×26(cm) 1586
【解説】: この非常に重要で影響を及ぼした日本地図は、1586年スイスのフレイブルクで出版されたキサトゥスの「新発見された日本の島およびその五国についての真実の報告」に出ている。 キサトゥスはルッツェルン市の行政長官で、1585年に日本について彼が収集できる全ての資料の編集を始めた。キサトゥスはルッツェルンのイエズス会の神学校長M・ロイベンシュタイン神父の親しい友人であった。ロイベンシュタインは宣教師として日本へ行くことを望んでいたが、彼を通じてキサトゥスは最新のイエズス会の書簡の写しを入手していた。この本はイエズス会の情報源による詳細な概観で、1584年から86年にわたる日本の遣欧使節団のスペインからローマに至る話を含んでおり、これがキサトゥスの資料編集の背後にある主要な動機の一つであった。地図は日本遣欧使節団の成果として1585-6年頃のイタリアおよびスペインで作製された日本の行基式地図から出たものであろう。 地図は、日本の西にイエズス会の神学校があることは分かるが、日本を解明することは 困難である。九州と本州は合併され、大坂が本州の東に表示されている。 非常に奇異な、稀少で重要な地図で、この本では複製からの印刷である。

No.22
カルディム, A ( CARDIM, Antonio ) 

「 カルディムの最も重要なイエズス会の地図 1646年 新詳細日本図 カルディム作 (Antonio Cardim's most important Jesuit map 1646 IAPPONIAE Nova et accurata descriptio Per R.P. Antonium Franciscum Cardirm Societate IESU Ad Elogia Iapponia) 」 
41×27(cm) 1646
【解説】: この日本に関する初期イエズス会の最も重要な文書は、1646年ローマでC・エアーズによって出版されたカルディムの日本のカソリック教会の苦しい試練の物語「日本殉教精葦」に発表された。 カルディム(生年は1595-1659年とも1596年-1549年とも)は、日本のイエズス会修道会の会計事務長であった。中国の義和団員による地図はおそらく1614年以前に作成されていたが、後まで出版されなかった。カルディムの地図は、その多くを、おそらくはI・モレイラ 1592年頃(現在喪失)を下敷きに作成された地図で、当時イエズス会の報告に発表された情報と輪郭に多くを負っている。非常に類似した地図が1641年に、B・ジンナーロの出版したフランシスコ・ザビエルの生涯の物語に発表されている。 地図は大変に詳細で、情報もぎっしり書込まれている。イエズス会の任務と聖職者団は地図の上にある番号付き記号で識別される。諸島の形は、以前の輪郭に比べて、海岸線の出入りがさらに増えてより正確になった。魅力的な挿し絵が左下に見え、1549年8月鹿児島にポルトガル船に乗った聖ザビエルの到着を描いている。イタリア、ポルトガル、日本のマイル縮尺が右下に見える。 非常に重要で希少な地図で、日本のイエズス会のユニークな記録である。

No.23
ダッドレー, R ( DUDLEY, Sir Robert ) 

「 日本の最も重要な海図の一つ (One of the most important sea charts of Japan Asia carta di cia sete piu moderna.) 」 
56×42.5(cm) 1646
【解説】: 1646年フィレンツェで刊行されたダッドリー卿の重要な海図地図帳「海の秘密」の第2版のやや小さな日本地図である。 この地図は、この地図帳に収録された大判の日本地図と比べると、双方の輪郭は全く異なっていて、興味ある対照を見せている。この輪郭はジンナーロ(1641年)およびカルディム(1646年)によるイエズス会の地図と非常に類似しており、それが最も明瞭なのは、出入りの多い海岸線の細かさや琵琶湖が大きな内陸の入り江として瀬戸内海に大きく伸びていることである。ダッドリーがこの地図のデザインのためにイエズス会士の情報源を利用したことはありうることである。この地図は朝鮮の東部海岸および日本の3つの主な島を図示しているのみである。しかし北海道の輪郭は、大判の地図に非常に近く、地図の一番上に、西から東へ長い海岸線があり、テソイとも、ミナミとも、マツマイとも記述されている。 美しい絵画的な線描きと能筆は、イタリアの熟練した彫工ルチニの精巧な彫りで、この地図は17世紀日本のヨーロッパ地図製作史上最も重要な海図のひとつである。

No.24
ダッドレー, R ( DUDLEY, Sir Robert ) 

「 17世紀海図の非常に希少なものの一つ「日本と蝦夷、および朝鮮国と周辺諸島の地図」 (One of the most rare 17th Century sea charts Carta Particolare della Grande Isola del' Giapone e di Iezo con il Regno di Corai et aitre Isole in torne...) 」 
75.5×48.5(cm) 1647
【解説】: この華麗な日本の海図は、1646年から1647年にかけてフィレンツェで刊行されたダッドリー卿の最も重要で影響力をもった海図地図帳「海の秘密」のためにルチニによって彫られたものである。 ダッドリー卿は、レスター伯の非嫡出子で1605年頃からトスカナ公の庇護のもとにフィレンツェで異郷生活を送ったイギリス人である。 卿はほぼ30年間、2巻の海図を含む全6巻からなるこの記念碑的な地図帳の作製に従事した。これはイギリス人による初めての海図地図帳であり、また初めてメルカトル投影法によって作成されたという点で重要な地図帳である。 日本の地図は、この地図帳に出ている2つのうちの一つであるが、それ以前の輪郭とは全く類似のない様々な情報源から描かれたものに違いない。朝鮮は島として図示されている。3つの主な島は全て良く画定された海岸の詳細が図示されている。奇妙な特徴はオミ川が北に向かって流れ、その河口に江戸の町が図示されていることである!北の方には、大きな東西に亘った広大な土地が地図の上部を横切って広がり、テソイ、ミナミおよびマツマイと記述されている。地図はルチニの華麗かつ優美な美しい絵画的な線描きによって美しく彫られている。これは後に1661年版が刊行されている。

No.26
ヴァレニウス, B ( VARENIUS, Bernard ) 

「 影響を及ぼした日本に関する書物の表題頁 1649年「日本国図」 (The titlepage of an influential book on Japan 1649 DESCRIPTIO REGNI IAPONIAE...) 」 
5×10(cm) 1649
【解説】: この精巧に彫られた表題頁は、アムステルダムで1649年に、有名なエルツエヴィル出版社が出版し最も影響を及ぼした、またおそらく12折判の最も小さい書物の一つであるヴァレニウスの日本に関する本からである。 オランダの医者でありまた地理学者であるヴェレニウスは日本に関する入手可能な全ての17世紀の情報源として、イエズス会士の書簡、マッフェイの歴史、マルコ・ポーロ、カロン、他の記述などの情報を順序正しくまとめ、この重要で影響を及ぼした本を作成した。この本は後の多くの地図製作者および地理学者にとって情報源となった。 興味深いことに、このタイトル頁は、後1663年のカロンの日本に関する本のドイツ語版のタイトル頁にその構成はほとんど同一であるが、地図は別であり、二人の日本人が開いた地図は、どちらかといえば、様式化した「行基」の本州地図のようである。 小さな日本地図を図示した魅力的に彫られたタイトル頁のある重要で影響を及ぼした本である。

No.34
カロン, F ( CARON, Francois ) 

「 17世紀の地図中で最も奇妙でかつ奇怪なもの 日本国の位置を示す完全な地図 (The most eurious and bizarre of 17th Century maps Perfeckte Kaert vande Gelegenheit des Landts van IAPAN) 」 
37.5×24(cm) 1661
【解説】: この奇妙で例外的に風変わりな日本地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの日本叙述のオランダ語初版に出ている。また、最初のドイツ語版は1663年に、またその後英語版も数版にわたり1670年代まで刊行された。 カロン(1600-1674年)は、17世紀初頭における東インド会社で最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官フィリップルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。 この地図は、日本の最も奇妙な17世紀の地図製作の記録で、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。中国と朝鮮の海岸は、(原文脱落)本州とアジア大陸をつなぐ狭い地峡は「蝦夷地」と呼ばれた。地図は多数の航程線の十文字形交差があり、怪獣と3艘のオランダ船で装飾されている。 これは非常に奇妙で珍しい地図で、また17世紀オランダ人の日本に関する大家の一人によって、本に発表されるというのは、いっそう奇怪である

No.35
ローン, J ( VAN LOON, Johannes ) 

「 日本への北東航路に対するオランダ人の信念 日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸 (The Dutch belief in a north-East Passage to Japan Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA...) 」 
54×43(cm) (1661)1666
【解説】: 北東アジアがノヴァヤゼムリャ島から日本へ広がっている珍しい海図は、あまり知られていないオランダ17世紀、海図製作者の一人であるJ・ローンの手になるものである。この版は1666年に、ローン原版を購入したJ・ウェスベルゲンの会社で、表題にウェスベルゲンの刻印を加えて発行された。この地図帳は「明るい光の北斗星」と題して、初めて1661年に刊行された。 この地図は、オランダ人の発見したノヴァヤゼムリャ島を明確に示して、アジアの奇妙な北部海岸線を図示している。東海岸は朝鮮をでこぼこのある半島として図示している。日本についていえば、主な島である本州はマルティーニの輪郭に依っており、蝦夷、スターテン島、および会社の土地は、デ・フリースの1643年の海図を踏襲したヤンソンの1659年の見本に依拠している。装飾的な表題の花枠は、裸の子供たちに囲まれて右上にある。マイルの縮尺は、これも陽気に戯れた裸の子どもたちに囲まれている。 この時代の多数の海図と同じように、これはノヴァヤゼムリャ経由で北極ヨーロッパから東洋ヘの北東航路が可能であるとの信頼を引き続いて与えた。しかし類似の海図と異なり、アジア大陸の東部のマルコ・ポーロのおとぎの「キャセイ」については触れていないが、この後の時代でさえなお、キャセイとのVOCの交易の機会があるのではないかと信じられていたのである。 希少でかつ珍しい海図である。

No.36
カロン, F ( CARON, Francois ) 

「 カロンの奇妙な日本地図のドイツ語版 特別の機会のために用意された正しい航海用の海図...日本 (A German edition of Caron's bizarre map of Japan Dierechte See-karte von der Gelegenheit... Japan) 」 
22.5×14.5(cm) 1663
【解説】: この奇妙で極めて風変わりな日本地図は、1663年のカロンとJ・ショウテンの「強大な日本王国とシャム、朝鮮に関する真実の記録」ドイツ語版に出ている。この地図は、1661年ハーグで出版されたカロンの作品の初版が添付されたより大判のオランダ版からのものである。 1663年のドイツ語初版は、その後数版が1670年代まで出た。 カロン(1600-1674年)は、17世紀前半のVOCで最も経験を積んだ日本学の大家の一人であった。カロンは1619年から1643年の間、平戸と出島のオランダ在外商館に居留して働き、1639年からは出島の「長官」を勤めた。1936年、VOC通商長官P・ルカスのために、この本の基礎となるものを作成していた。 この地図は、1661年の輪郭をほとんど正確に踏襲していて、諸島の輪郭は非常に様式化され不正確である。本州はまさしく「蝦夷地」と呼ばれた狭い地峡でアジア大陸につながっていることを図示している。諸島の地図製作法はかなり様式化されているが、この版は日本の主な都市の名前を付して内陸の詳細については充実している。 しかしながら、これは非常に奇妙で珍しい地図で、日本に関する大家の一人である17世紀オランダ商人による本に、これが出典されるのは、いっそう奇怪なことである。

No.53
ミュラー, J. U ( MULLER, Johann Ulrich ) 

「 (日本諸島)およびモルッカ諸島 (Insulae MOLUCCAE) の記述 ((Niphon Ins) with text of Insulae MOLUCCAE) 」 
7.5×6.5(cm) 1692
【解説】: このまれな日本のミニアチュア地図は、デュヴァルのミニアチュア地図帳「世界地理」(仏)のドイツ語の複写で、「世界地理」と題して1692年ドイツのウルムで最初に出版された。 デュヴァルの地図と同じように、ミュラーはカルディムとブリエの湾入のある同じ輪郭を使用している。地図は、文章のページの中に挿入され、通常は同じページの地図の記述をしているが、このページの文章はモルッカ諸島の記述である。 この地図はミュラーによって、多くの異なった判型に、文章の異なった設定で出版された。また文章なしの版も、ドイツの地図製作者ボデネールによって記録されている。 非常に珍しいミニアチュアの作品である。

No.55
デュ=フェール, N ( DE FER, Nicolas ) 

「 アジア東部...日本 日本およびアジア東部図 (LA PARTIE ORIENTALE DE L'ASIE... DU JAPON) 」 
33×23(cm) 1703
【解説】: デュ・フェール(1646-1720年)の18世紀初頭の魅力的な長方形の4折判「(奇妙な)地図帳」の版で、1700年から1705年の間に初めてパリで、年間6回に分けて発行された版のなかに発表された珍しい地図である。この地図は1703年に発行された第4部に出ている。 この地図は、C・インセリンにより彫られたもので、アジアの東部海岸を広東や台湾から北海道まで描き、北海道は本州の北に、非常に変わったアジアの半島として図示されている。日本は17世紀末のサンソンの輪郭により図示されている。この地図は興味深いまたおもしろい注釈がたくさん書込まれている。 表題は右下の質素な楕円形の枠に収まっている。この地図はデュ・フェールが極東のこの地域に焦点を当てた唯一の地図である。 この地図は、後の版には細部は変更されないが日付が1705年と変えられて出ている

No.117
作者不明 ( Anonymous ) 

「 中国帝国、日本諸島および朝鮮を含む (L'EMPIRE de la CHINE avec les Isles DU JAPON et la Coree.) 」 
25×18(cm) 1785頃
【解説】: パリで1785年頃に出版された魅力的な小さな銅版の中国と日本の地図。 地図は中国と日本の情報源と輪郭を、ダンヴィルの地図から取り入れ、日本の3つの主な島はどれも地図の極端に右側に図示されている。しかし東北地方は短縮され歪められている。これはおそらく彫工が島々を地図の枠内に収めようと努力したせいであろう。 表題は魅力的ではあるが、やや荒っぽく彫られた花枠の中で左下にあり、中国人高級官僚が手にキセルを持ち、パラソルの下で小鳥を腕にのせている図がある。

No.135
ロッシ, L ( ROSSI, Luigi ) 

「 日本 (GIAPPONE) 」 
25×20(cm) 1820
【解説】: 単純で明瞭に彫られたイタリア地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された日本の3つの主な島を描いたフランス地図から忠実に複写されている。 装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィルの1737年のタタール地図船よび1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。 この地図は、ミラノのボルディガ兄弟の会社で彫られ、1820年ミラノでロッシが出版した「新世界地図帳」に発表された。 19世紀の珍しい銅版である。

No.142
クルーゼンシュテルン ( VON KRUSENSTERN, Adam ) 

「 アダム・フォン・クルーゼンシュテルンの重要なロシア地図 1827年 日本帝国の地図 (Adam Von Krusenstern's important Russian map 1827 Carte de L'EMPIRE DU JAPON...) 」 
61×88.5(cm) 1827
【解説】: この精緻でまた詳細な大判地図は、1826年から1838年の間に、ペテルスブルクで出版されたフォン・クルーゼンシュテルンの太平洋の重要な地図帳の2つの章に出ている。 この地図はクルーゼンシュテルンが、1803年から1806年の間に「ナデージュダ」号および「ネヴァ」号に乗船して、最初のロシア世界周航で行った日本沿岸の調査に基づいたものである。 クルーゼンシュテルンは、1803年8月ロシア皇帝の密使として、在外通商公館を開きまた日本におけるオランダ以上の特権を得たいという目的で、長崎に到着した。日本との交渉が決裂して、翌年4月まで未決のまま監禁された。しかしこの探検の成果によって、フォン・クルーゼンシュテルンは、日本の西部の大部分を正確に調査したヨーロッパ人の最初の一人に数え上げられる。地図は、九州の全部、四国、東北東部を除く殆どの本州を図示している。右下の挿入図は、クルーゼンシュテルンの「ナデージュダ」号の航跡で、長崎ヘの進入航路を描いている。なお同船は一般地図にも描かれている。この地図はワイマール大公に献呈されている。 19世紀初期の日本にかんする最も重要なロシアの地図製作者および水路測量者の一人による非常に重要な地図である。

No.148
S. D. U. K ― ボールドウィン & クラドック ( S. D. U. K. - BALDWIN & CRADDOCK ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
35×43(cm) 1835
【解説】: 実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって出版された興味深い19世紀前半の日本地図である。この協会はその目的を「有用な情報を全ての社会階層に伝達すること」とした社会改良団体である。本、雑誌および百科事典の大量の発行部数は、またこうした質素な彫りと詳細な地図シリーズと結びつき1829年から1832年の間に初めて一部が出版された。地図は、3つの主な島の輪郭がますます正確になり、地域の区切りや都市は全て記されている。右上の2つの挿入画は、長崎港と南千島諸島を描いている。魅力的で重要なペリー以前の地図は、なおその情報源に100年前のケンペルの作品と、ロシア人クルーゼンシュテルンの調査から引用している。クルーゼンシュテルンは、1826年から1838年にペテルスブルクで2部からなる太平洋地図帳を出版し、また19世紀初頭、秋田までの本州西部と九州の殆どの水路測定を行った。 SDUK地図は、普及版となり、この地図帳は1860年代終わりまで、ロンドンの多数の異なる出版社のインプリントで、情報を更新して再印刷された。

No.151
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本帝国の一般地図 (CARTE GENERALE DE L'EMPIRE JAPONAIS.) 」 
31.5×22.5(cm) 1838
【解説】: この朝鮮、日本、北海道および千島諸島の一般地図は、シーボルトの1823年から1830年までの日本ヘの航海および日本滞在を記述したフランス語の2折判のPlateⅠ(図Ⅰ)に出てくる。ドイツ語版の初版は一部が1832年に出ている。これは1838-40年のフランス語版である。 この地図は、シーボルトが表題に説明しているように、殆どそっくり複写しているドイツ語版と同様に、日本の木版地図「日本???」と題された日本の木版地図からから取られたものである。表題は日本語で出ており、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に取り囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細および1808年に発見された間宮海峡を描いている。 フランス語版は、A・ベルトランによる出版で、オレルアン公に献呈されており、1838年から1840年の間に5巻が、150の彫版を収録した1冊の地図帳と共に出ている。

No.152
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本国図。日本人による原地図および天文学観測にならって。(1975年、東京、講談社の複製版) (Philip Franz Von Siebold's important Map 1840 KARTE VOM JAPANISCHEN REICHE nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner...) 」 
55×39.5(cm) 1840
【解説】: この最も重要で影響力を及ぼした地図は、1832年から1859年に一部が出版されたシーボルト「日本、日本とその隣国および保護国についての記録文書」に出たものでこの地図は1840年の日付がある。 この地図はシーボルトの1823年から1830年までの出島滞在期問に入手した情報をまとめたものである。1829年、彼はスパイ容疑で逮捕され1830年日本から永久追放処分をうけた。この地図が最大の権威ある影響を及ぼしたのは、彼が伊能忠敬、最上徳内、間宮林蔵などの当時の一流日本地図製作者の多くから得た資料である。その中には、九州西方の小さな一群の島である奄美大島の詳細な海岸線の概観図も含まれる。長崎港もまた右下の挿入図に示されているが、シーボルトが1828年出島で作成したもので、かれの本にも出ている。地図は、日本の情報源を使用しただけでなく、1804-1805年に日本西部を包括的に調査し、その日本の大判地図を1827年に出した、ロシアの海軍提督クルーゼンシュテルンに依ったことも記している。 フォン・シーボルトの地図はその後、日本の地図の基礎となり、大きな影響力を持った。これは西洋と日本の地図製作者の文化交流による魅力的な産物で、19世紀半ばに発表されたとりわけ優れて正確な日本地図である。

No.157
マルッゾラ ( MARZOLLA, Benedetto ) 

「 日本帝国 (IMPERO DEL GIAPONE) 」 
43×58(cm) 1847
【解説】: ナポリで、マルッゾラの「地理学地図帳」に発表された珍しい日本の大判地図で、イギリスのアロウスミスおよびSDUKの地図を見本としている。 地図は北は南千島諸島まで日本の全ての4島を組み入れている。左上の大きい挿入図は長崎港と港町を描き、一方地図の周囲には日本に関する地理、政治、住民、宗教、商業、農業についての詳細な説明文がある。 興味のある珍しい19世紀中葉のイタリアの日本地図である。

No.180
ロビクエット, A ( ROBIQUET, Aime ) 

「 日本海および朝鮮周辺海地図 (CARTE DES MERS DU JAPON ET DE LA KOREE...) 」 
100×66(cm) 1859
【解説】: この大判の中国北部、朝鮮、満州、日本および北海道沿岸の海図は、1859年フランスの水路測定師ロビクエットによって、パリで出版された。 黄海の詳細な沿岸情報および水深測量が提供されており、また日本の詳細な沿岸も示されている。本州南西沿岸は図示が不十分で、また新たな英語名が多数の特徴的な沿岸につけられたが、これは1850年代末、イギリス条約港開港後のイギリスの調査の結果であろう。 詳細な挿入図は、1852年8月フランスのE・ムウシェズ(1824-1892年)大尉によって調査され、現在のウラディオストックのすぐ南にある満州沿岸のダンヴィルの湾を描いている。

No.183
フルデンベルク, G. A ( HULDENBERG, G. A ) 

「 日本図 (KARTA ofver JAPAN. STOCKHOLM. G.A.Huldebergs Bokhandel Bazaren a Norrbro.) 」 
23×29(cm) 1860頃
【解説】: 非常に珍しくてまた希少なスエーデンの地図は、書籍販売商フルデンベルクによって出版された。この会社については何も知られておらす、その対象分野も分からないが、地図の体裁からは、1860年代初期の日本旅行記から来ているようで、ペリー提督の遠征の成果に関わるものであろう。 確かに、地図はアメリカで1856年初版のペリー提督の地図から取られているようである。スエーデン語の翻訳は、多数の地名があり非常に詳細で、また北海道についても非常に詳細な情報を提供している。 非常に珍しい一品である。

No.185
ブラッキーと息子 ( BLACKIE & SON ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
25×34(cm) 1860頃
【解説】: この精緻な日本の石版地図は、グラスゴーのブラッキーと息子の会社によって出版され、 19世紀後半の彫工で地図作家としての実力者ウェラーが彫ったものである。 地図はペリーの遠征後まもなく出版され、日本の諸島はますます詳細になり、また正確な輪郭で描かれている。注目すべき点は、北の北海道は特に良く描かれていて、一部分はブロートンおよびクルーゼンシュテルンの調査の結果であり、またさらにいっそう、1855年以降の北海道南部、函館条約港の開港による結果である可能性が大きい。 興味深いまた詳細な19世紀中葉のスコットランドの地図である。

No.192
ウェラー, E ― キャッセル社 ( WELLER, Edward - CASSELL & c ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
30×42.5(cm) 1863頃
【解説】: この詳細な石版地図は、ウェラーの1858年の「週刊特派員地図帳」に発表されたものである。これは1850年代および1860年代の最新の政治事情に関連した地図付き「週刊特派員」の別冊(付録)の普及版で、大量発行部数の地図帳であった。この地図は、重版からのもので、おそらく1863年頃、オルコックの日本探訪の記述に伴うものとして使われたものであろう。表題は改定され、サハリンと満州の境界は変更された。 地図は、正確で非常に詳細で、北海道を含めて全ての島々の輪郭は正確に図示されている。 アジア大陸も、サハリン島や満州の紛争中のロシア―中国領士と共に図示されているが、これは、1858年発行のウェラーの地図とは異なる描写である。