No.54
ヤンソン, J ― シェンク & ヴァルク ( JANSSON, J. - SCHENK & VALK ) 

「 新詳細日本国蝦夷 (NOVA ET ACCURATA IAPONIAE TERRAE ESONIS...) 」 
55×45.5(cm) (1652)1700
【解説】: 17世紀の日本の西洋の地図製作歴史上重要な地図で、イェゾ(北海道)および北方諸島の最も正確な海岸線の描写を提供するもので、ヤンソンの海図は1643年のデ・フリースの探査を、初めて印刷された形として提供した。 このヤンソンの地図帳の銅板版型は、P・シェンクとG・ヴァルクのオランダ印刷会社が1694年に入手した。この地図は、その後およそ18世紀終わり頃まで、刻印以外は、変更を加えず再発行された。デ・フリースの調査は18世紀末、ラ・ペルーズがその調査に際して使用して、その結果、デ・フリースの探検が引き起こした不正確さや誤った考察のいくつかは、とりわけ、千島諸島の長さと、いわゆる「会社の土地」については、やっと終止符が打たれた。 ヤンソンの重要な海図の珍しい再発行である。

No.55
デュ=フェール, N ( DE FER, Nicolas ) 

「 アジア東部...日本 日本およびアジア東部図 (LA PARTIE ORIENTALE DE L'ASIE... DU JAPON) 」 
33×23(cm) 1703
【解説】: デュ・フェール(1646-1720年)の18世紀初頭の魅力的な長方形の4折判「(奇妙な)地図帳」の版で、1700年から1705年の間に初めてパリで、年間6回に分けて発行された版のなかに発表された珍しい地図である。この地図は1703年に発行された第4部に出ている。 この地図は、C・インセリンにより彫られたもので、アジアの東部海岸を広東や台湾から北海道まで描き、北海道は本州の北に、非常に変わったアジアの半島として図示されている。日本は17世紀末のサンソンの輪郭により図示されている。この地図は興味深いまたおもしろい注釈がたくさん書込まれている。 表題は右下の質素な楕円形の枠に収まっている。この地図はデュ・フェールが極東のこの地域に焦点を当てた唯一の地図である。 この地図は、後の版には細部は変更されないが日付が1705年と変えられて出ている

No.56
デュ=フェール, N ( DE FER, Nicolas ) 

「 日本およびアジア東部図 (LA PARTIE ORIENTALE DE L'ASIE... DU JAPON) 」 
33×23(cm) (1703)1705
【解説】: この地図は、デュ・フェールの極東の地図である「(奇妙な)地図帳」 1705年の第2版である。 題の日付を別としても、これは1703年版から変更されていないと思われる。 この地図のこの版は、後の多数の引き続く地図帳の版に使用され、ノルデンスキョルドは1725年版の地図帳をこの1705年刻印のものとして記録している。

NO.57
プサルマナツァー, G ( PSALMANAZAR, George ) 

「 最も優れた東洋の捏造ばなしから生まれた地図である。 日本地図 (A map from one of the finest Oriental hoax stories CARTE DU JAPON) 」 
31×19(cm) 1705
【解説】: プサルマナツァーの話は、おそらく17世紀末および18世紀初めの最大の捏造話の一つであろう。プサルマナツァーは、デ・ロデズ??という名のフランス人で、オランダのイギリス連隊の従軍牧師の眼鏡にかなった出世を求める放浪の兵士であった。二人は共謀して、どの時代にも劣らぬ最大級の捏造話を作りあげた。プサルマナツァーは、東洋風の衣装をまとい台湾人になりすまし、同時代の学者を混乱させた奇妙な台湾のアルファベットを作りだした。プサルマナツァーはロンドンへ赴き、ロンドン主教をはじめ大勢の貴族の庇護下に知名度を高め、まんまとオックスフォード大学で職につくこととなり、プサルマナツァーの風変りの台湾語は、大学の学者による解明が望まれた。それが欺瞞であることが発見されるまでは、プサルマナツァーの本は版を重ねた。書のほとんどのデータは、カンディディウスやヴァレニウス等の昔のヨーロッパ人の日本の記述から引用されていた。 地図は基本的には、日本の3つの主な島と、朝鮮の南端を示したオルテリウス-テイセラによる諸島の輪郭である。南には、潤色のため憶測による詳細と共に琉球諸島と台湾が図示されている。 魅惑的でまた非常に珍しい地図で、この地図はプサルマナツァーの希少な1705年オランダ語版に発表されている。

No.58
ファン=デア=アー, P ( VAN DER AA, Pieter ) 

「 安針さんことウィル・アダムズを記念して 東および西インド旅行記集 ウィリアム・アダムスの2通の手紙 (Will Adams, Anjin-san rcommemorated WILLIAM ADAMS Reystogt na OOST-INDIEN avontuurlyle door de Straat Mageilaan in't Keyserryk van JAPAN Voleyndigt.) 」 
29×22(cm) 1707
【解説】: ファン・デア・アーの魅力的な18世紀初頭の地図は、アダムズが初めてイギリス人として日本上陸したほぼ一世紀を記念したものである。アダムズはオランダ船「リーフデ」号の水先案内人で、ホーン岬を乗り越えた後、1600年4月南九州の海岸に上陸した。アダムズは後に将軍の大きな引き立てを得て、その側近の1員として認められ、貴族に任じられた。アダムズは彼が日本で死去する1620年までのオランダやイギリスの商人の到来、またキリシタンの迫害をも見届けた。 ファン・デア・アーの地図は、朝鮮は島で、日本はマルティーニの見本によっており、大きなエゾ地は東アジアの一部として示されている。右下の魅力的な楕円形の花形枠の表題は2艘のオランダ船「フープ」号と「リーフデ」号が多分南アメリカの沿岸に停泊し、アダムズが将軍の城でもてなされている様子が魅力的な葡萄模様とともに描かれている。 この地図はファン・デア・アーの1707年ライデンで出版された28巻の「東および西インド旅行記集」の網羅的な初期航海の収集に初めて見ることができる。これは地図帳の形でも出ており、またこの地図の版は別に彫られたフランス語の副題のついた装飾的な外枠で囲まれたものも知られている。

No.59
アッフェルデン, F ( AEFFERDEN, Francisco de ) 

「 フィリッピン諸島、モルッカ諸島図に組み込まれた日本図 (LAS ISLAS DE JAPON... LAS ISLAS PHILIPPINAS, MOLUCAS Y de LA SONDA) 」 
16.5×14(cm) 1709
【解説】: フィリッピン諸島と共に、挿入された珍しい日本地図は、ベルギー人地図製作者アッフェルデンの1709年の「簡略地図帳」に、スペイン語の文章つきで、初めて発表された。その後、1711年、1721年、1725年の版にも出ている。 この地図はフランス語にも翻訳されており、デュ・フェールの1717年の「地理学入門手引き」やその他の地理書をはじめとする、この時代の数々のフランス語地図帳にも編入されている。1739年リヨンでF・ジュスティニアニ出版のフランス文つきでも「簡略地図帳」の版は記録され、このコレクションに出ている。 小さく挿入された日本地図(8×6cm)はマレの1683年の、3つの主な島がずんぐりした丸みのある輪郭で描かれたミニアチュア地図に非常に似ている。 18世紀の興味ある珍しい地図である。

No.60
アッフェルデン, F ( AEFFERDEN, Francisco de ) 

「 日本諸島...フィリッピン諸島、モルッカ諸島、およびスンダ列島 (LES ISLES DU JAPON... LES ISLES PHILIPPINES, MOLUCQUES et de LA SONDE) 」 
16.5×14(cm) 1709
【解説】: フィリッピン諸島と共に、挿入された珍しい日本地図は、アッフェルデンの1709年の「簡略地図帳」に、スペイン語の文章つきで初めて発表された。 この地図は、デュ・フェールの1717年の「地理学入門手引き」やその他の地理書をはじめとするこの時代の数々のフランス語地図帳にも編纂されている。後に1739年フランスのリヨンでF・ジュスティニアニ出版のフランス文つきの地図と一緒に出版された、この地図の出典である「簡略地図帳」の版もその一つである。 小さく挿入された日本地図(8×6cm)はマレの1683年の、3つの主な島がずんぐりした丸みのある輪郭で描かれたミニアチュア地図に非常に似ている。 希少かつほとんど知られていない地図である。

No.61
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 (無題)日本帝国についての権威ある珍しい記述という文章で始まっている ((Untitled)Text heading: Some Curious Remarks upon the Potent Empire of Japan) 」 
16×14(cm) 1710頃
【解説】: この珍しい表題のない地図は、1704年ロンドンでJ・チャーチルによって初めて出版された初期の航海物語のコレクションのなかの一つに挿入されたものである。この地図は、その出所は明示されていないが、モルの作品のようである。 地図そのものは中国の東および南東海岸、台湾および九州、四国、東は江戸までを含む本州の日本西部を図示している。 地図の上の題はカンディディウスの表示があるが、これはフランスの作家であり司祭であるG・カンディディウスで、台湾については、初めての詳細な記述を提供したもののひとつである。裏面の文は、カンディディウスによる台湾の説明文の一部を掲載している。 カンディディウスの台湾の話は、18世紀初頭、詐欺師プサルマナツァーの台湾話のほとんどはこれが元であった。

No.62
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 日本図。IAPONもしくはNIPHON。地理学者H・モルによる蝦夷地。フリース海峡。 (IAPON or NIPHON. The Land of IESSO and STRAITS of the Vries by Herman Moll Geographer (with) NEW GUINEA, NEW BRITAIN & New Holland & c...) 」 
18×13(cm) (1710)1780
【解説】: モルの魅力的な日本、北海道、デ・フリースの小地図は初めて1712年にその「地理地図帳」に発表された。 日本の面白い輪郭は、本州はかなり短く太く描かれ、「蝦夷地」と呼ばれた奇妙な北海道は、アジア大陸につながっているようにみえる。右上の小さな挿入図は、ラドロン諸島-マリアナ諸島で、南端にグアム島が図示されている。北方に関しては、モルはデ・フリースの輪郭を踏襲し、東には小さなスターテン島(エトロフ)および可能性として広大な会社の土地を配している。 この地図は1対になっており、地図の下方は、不完全なオーストラリアと、1699年に大いに宣伝されたW・ダンピアのニューブリテン島およびソロモン諸島の航海での最新の発見を示している。 この地図は1780年頃の版で、下側の表題の下に、C・ボールズの刻印がある。これは1780年頃の「小地図帳」に発表されたもので、クックが現実にオーストラリア地図を書き換えた後に出版されたのである! 興味深いことに後に発行された魅力的な18世紀初期のイギリス地図である。

No.63
レランド, A ( RELAND, Adrien ) 

「 日本の木版画をレランドが複写したものである 1715年 66の地域区分のある日本 (Adrien Reland's copy of a Japanese woodblock 1715 LE JAPON DIVISE EN SOISSANTE ET SIX PROVINCES. ) 」 
44.5×30.5(cm) 1715
【解説】: この日本の精巧な地図は、表題が示しているように日本の木版画に基づいており、レランドのものとされる2つの類似した様式のひとつである。 レランド(1678-1718年)は、有名なオランダの東洋学者で、おそらくはオランダ東インド会社とのつながりによってこの日本地図を入手したものと思われる。 レランドが著作者であることを記した1715年のより大きな地図と同じように、この地図は西洋の地図に初めて日本の仮名文字の記載を含んでいる。地図の中央下には日本の華族の家紋に囲まれた詳細な長崎港の挿入図がある。 この地図は1715年から1727年にかけてアムステルダムでJFバーナードが出版した8巻本の「北方旅行記集」の3巻に出ている。この本は最近のいくつかの探検の説明で、これはまたデリースルの重要なミシシッピ河の地図を1枚含んでいる。 珍しく重要で非常に影響力を及ぼした地図である。

No.64
レランド, A ― ブリュデレット, G ( RELAND, A. - BRODELET, G. ) 

「 最も装飾的な日本のヨーロッパ地図の1枚である 日本図 (One of the most decorative European maps of Japan IMPERIUM JAPONICUM...) 」 
59.5×46(cm) 1715
【解説】: この日本諸島の素晴らしく装飾的な地図は1715年に有名な東洋学者レランドによって出版された。彼の地図の2つの版は同じ年に出ており、こちらのより装飾的な版が特に人気を博し、1745年頃までフィッセルやオッテンスの地図帳に再発行されてきた。これは1715年、ブリュデレットの刻印で、アムステルダムで発行された初版である。 地図は、図版の下方に添えられた注釈が意味しているように、その出所は、VOC役員のB・デュトリ蔵書の日本原版によるものである。 レランドの地図はおそらく18世紀に最も影響を持ったもので、ケンペルの日本地図にかなり歪んだ様式化した形を提供し、また66の地域を仮名文字??で記述した初期のものの一つであり、西洋の地図にこの文字を使用した最初の一つである。 地図の装飾的質の高さは、フランスの聖クウェンティン大修道院長P・ビノン(1663-1743年)へ献呈された中央下の表題の飾り枠がいっそうその効果を高めている。周りを囲む挿し絵は、モンタヌスの1669年の作品から取られ、余白には注記が同時代人のイタリア人によって追加されている。 希少かつ重要、装飾的で影響力のある地図である。

No.65
シャトラン, H. A ( CHATELAIN, Henri Abraham ) 

「 日本図 (L'EMPIRE DU JAPON...) 」 
43.5×36(cm) 1719
【解説】: この魅力的で装飾的な地図は、1718-20年のシャトランの出版した「歴史地図帳」の5巻に出たものである。 この地図は、J・F・バーナードの「北方旅行記集」に発表された1715年の地図の忠実な複写である。レランドの地図と同じように、66地域を記すために日本の印刷された仮名または漢字を組み入れている。この地図の出典は、シャトランが記述しているように、日本のかなり様式化した、また、歪められた形の「行基式」地図からのものである。図示された輪郭は、うずくまったような歪みを生じ短縮された本州がとりわけ目立っている。 装飾的な表題枠は、日本の貴族の家紋によって囲まれて地図の中央下にあり、一方その右には詳細な長崎港の挿入図がある。 18世紀初期のヨーロッパ地図製作者の社会に、日本の木版画の影響を広め、その認識を促した興味ある地図である。

No.66
シャトラン, H. A ( CHATELAIN, Henri Abraham ) 

「 日本天皇の歴代の継承...日本地図 (SUCCESSION DES EMPEREURS DU JAPON... Carte du JAPON) 」 
43×38(cm) 1719
【解説】: 精巧な2折判の風景画は、1719年にアムステルダムで発行されたシャトランの「歴史地図帳」の5巻に発表された小さな日本地図を伴っている。 主たる2つの風景画は、1669年のアーノルド・モンタヌスから直接複写されたもので、左には、Cubo天皇のご逝去、右には1644年のオランダ大使の三輪到着を描いている。 中央の樹の系図は、やや奇妙な日本DairoからQuanoの歴代天皇の系図を描いている。 日本の小型地図は(11.5×15.5 cm)、1652/9年のハンソンおよびN・サンソンの輪郭を凡帳面に見本としており、東が基点で上部にあり、画面中央の下に出ている。本州と四国は九州の一部と共に図示されている。全ての主な町や都市は記されている。パネルの文章は詳細に2つの彫刻の内容を記述している。 興味深いまた装飾的な地図である。

No.67
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 現代史に合致した中華帝国と日本島 (The Empire of CHINA and Island of JAPAN Agreable to Modern History.) 」 
25×25(cm) 1725頃
【解説】: この精緻な銅版地図は、1725-1748年の間版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。 モルの1712年の日本地図と同じように、この地図は北方諸島の描写が特に興味深い。 地図には、中国、台湾、朝鮮は先端を切った円錐台形の半島として、またかなり歪んだ日本が図示されている。北部北海道(蝦夷)の島の図示は不鮮明で、点線の海岸線は東アジアの半島としての可能性も残している。モルはさらに東に、スターテン島(エトロフ)、デ・フリース海峡および1643年に初めてデ・フリースによって指摘され北太平洋の地図製作上その後、大きな混乱の原因となった伝説的な会社の土地(ウルップ)を識別している。 18世紀初期の最も人気の高かった、また多作のイギリス地図製作者の一人による精緻な銅版地図である。

No.68
ヴァレンティン, F ( VALENTYN, Francois ) 

「 ヴァレンティンの珍妙な18世紀初頭の地図 日本島新図 (Valentyn's curious early 18th Century map NIEUWE KAART VAN HET EYLAND JAPAN...) 」 
56×44(cm) 1726
【解説】: この重要で珍しい18世紀初期の日本地図は、ヴァレンティンの里程標となった東インドにおけるオランダの通商および植民地帝国の記述は、1724-1726年に「東インド報告記」5巻本としてアムステルダムで印刷され、その5巻に発表された。 レランドの地図(1715年)やケンペルの地図(1727年)と同じように、ヴァレンティンの地図は、日本国内の木版地図に基づいているように思われる。日本の形は他の地図ほどではないが、同じように歪められたものである。最も注目すべき特徴は本州が太った短縮された形であることである。 ヴァレンティンの作品の多くはオランダ東インド会社の保管文書、あるいはその管理部門の上司が提供したオリジナルの手書き図案、展望図、海図から引用されており、ヴァレンティンは出島から送られた日本の木版画に接することができたことが明らかに認められる。彼は出島のオランダ商人の報告書や日記を見る機会があったことを知られている。 確かにその形は、レランドやケンペルの同時代の地図が非常に類似していることと比べると変わっている。66の地域名が、長崎から京都、江戸へオランダ人が毎年辿ったルートの土地や海岸線の詳細と同じく記されている。

No.69
ケンペル, E ― ショイツアー, J. G ( KAEMPFER, E. - SCHEUZER, J. G. ) 

「 最も重要な日本に関してのヨーロッパ地図の一つ 68州に分けられた日本図 (One of the most important European maps of Japan IMPERIUM JAPONICUM IN SEXAGINTA ET OCTO PROVINCIAS) 」 
53×46(cm) 1727
【解説】:「18世紀の初頭において日本に関してのヨーロッパ地図に最も重要な影響を及ぼしたのはケンペルである」(コルタッツティ)。ケンペルの死後、スイス人学者J・G・ショイツアーにより出版されたケンペルの「日本史」は、有名なイギリスの植物学者で博愛主義者であったH・スローン卿から多くの影響を受けたもので、この本はスローン卿に献呈されている。スローン卿こそは、ケンペルの死後、その論文および原稿のコレクションを彼の家族から買いとった人で、そのほとんどが大英博物館のスローンコレクションの基礎を成している。ケンペル自身は、わずか1690年から1692年まで、出島の医者として日本に居留しただけであるが、それまであまり入手できなかった情報源ヘのユニークな入手方法があった。この瞠目すべき地図は、日本の「行基式」地図から取られたが、この地図と共に、日本を非常に歪んだ形で図示している。これはこの地域を日本の仮名文字で示す傾向がますます増えていく西洋の地図の一つである。 詳細な挿入地図は、ロシアおよび日本の原図に基づいて、日本の北の地域をそれぞれ図示していて、また北太平洋の混乱した地図製作を顕わしている。表は日本から外国ヘの距離で、一方、左下のパネルは、日本の祈祷の様子を描いており、神々が献辞を取り囲んだケンペルのスケッチを複写している。非常に重要で影響を及ぼした地図である。

No.70
ケンペル, E ― ショイツアー, J. G ( KAEMPFER, E. - SCHEUZER, J. G. ) 

「 希少なオランダ版のショイツアの日本地図 日本王国...ケンペル氏作成 (Scheuzer's map of Japan in a rare Dutch edition HET KONINKRYK JAPAN... den HEER KAEMPFER) 」 
50×42(cm) 1727
【解説】: この魅力的で、非常に装飾的な日本地図は、ケンペルの重要で影響力のある「日本歴史」の1729年オランダ版に出ているが、最初は1727年ロンドンで出版されたものである。 ケンペルは、1641年から19世紀の半ばまで、日本における唯一の交易基地であった長崎港のオランダ居留地出島に居留したドイツ人医師であった。1690年から92年間の2年の居留で、彼は膨大な資料の収集―地図、版画、工芸品、植物標本―を手に入れ、また自らも絵とスケッチを作成したが、これは後にイギリスの収集家であり、植物学者のH・スローン卿が購入した。有名なスイスの植物学者の兄弟であるスイス人学者J・G・ショイヒツアーによって編集され、そのコレクションは現在大英博物館に収蔵されている。 この地図は、オランダ語の翻訳、スローン卿ヘの献辞および地図の上の横書きの表題が除かれたことを除くと、1727年版の地図とほとんどあらゆる点で同じである。 ショイヒツアーの地図の珍しい版である。

No.71
ケンペル, E ( Englebert Kaenpfer ) 

「 日本地図...同じ日本の地図およびケンペル氏の意見を基に作成 (CARTE DU JAPON Dressee sur les Cartes Japonnais memes et sur les Observations de Mr. Kaempfer) 」 
32.5×25(cm) 1729
【解説】: この精巧な日本地図は、おそらく最初に I・ティリオンによって、ケンペルの有名な「日本歴史」の1729年と1732年版、フランス語およびオランダ語の8折判のために彫られたものであろう。 1727年の2折判日本地図を踏襲し、日本の輪郭は大きく歪んでおり、本州は特に不格好であるが、これはケンペルが、表題の記述のように、国内の木版画日本地図を信頼したためである。北方諸島もまた混同しており、カムチャッカは蝦夷島または蝦夷半島として描かれている。地図の内部は、全ての地方が、長崎から京および江戸までの日程と共に、示されている。 格子模様の上に大きな標題が左上に、中央の下にはマイル縮尺が描かれている。 ケンペル地図の1727年の2折判よりも希少で、この小さな地図はその後、多数のオランダ地図の、特にティリオンの見本となったが、これは18世紀の中頃まで広く印刷された。 希少で珍しい地図で、ケンペルの作品をさらに普及させ、また彼の1727年の地図が示したような、歪んで様式化した日本の輪郭が広まった。

No.72
ゾイター, M ― ロッター, T. C ( SEUTTER, M. - LOTTER, T. C. ) 

「 18世紀の最も精緻な地図の一つである 日本帝国。ケンペル作の国内観察記録による地理学上の新地図 (One of the finest 18th Century maps REGNI JAPONIAE NOVA MAPPA GEOGRAPHICA ex indigenarum observationibus delineata ab ENGLEBERTO KAEMPFERO recusa e emendata...) 」 
56×48.5(cm) 1730
【解説】: この魅力的な日本地図の珍しい版は、T・C・ロッターが、1730年頃ドイツのアウグスブルクで出版されたゾイターの世界地図帳の一つのために彫ったものである。 非常に様式化され歪められた輪郭は、特に本州がはなはだしく歪められているが、1727年のケンペルの地図を見本としている。この地図は精緻に彫られ、左上の非常に装飾的な表題の楕円形花枠は、ケンペルがペンを手にし、直接日本の海岸線を調査している様子を描いている。数人の東洋人が立派な巻き物の表題を囲んでいる。 ケンペルの挿し絵を見本として、この地図は、右下に金貨銀貨や日本の貴族や皇族の家紋の挿し絵がある。1727年の日本地図と異なり、日本の地方名はローマ字のみで、仮名文字はない。 希少で珍しい地図で、ケンペルの作品をいっそう普及させ、また1727年の日本地図が提供した日本の歪んだ様式化した輪郭を広めた。

No.73
ホンディウス, J ― デュプレシス, D ( HONDIUS, J. - DU PLESSIS, D. ) 

「 18世紀の時代錯誤 日本 (An 18th Century anachronism IAPON(IA)) 」 
24.5×28(cm) (1630)1730
【解説】: この奇妙な地図は、アムステルダムで1630年に初めて出たクロッペンバーグ-メルカトルの日本地図帳の使い古されて相当に手を入れられた後の版のようである。 この地図帳は、J・クロッペンバーグの出版であるが、地図のほとんどがP・ヴァンデンキールの彫った以前のミニアチュア地図帳よりわずかに大きな判である。この地図帳は2、3年間印刷されたが1636年頃には廃されたようである。1673年後、この原版を遺産相続したJ・ファン・ヴェスベルゲンの相続人が印刷を継続した。この地図帳の最後の完全判は1676年、アムステルダムで印刷された。 しかし、1734年、H・デュソーゼットはこの地図帳の改定混成版を、なお使用可能なクロッペンバーグの原版を、日本などのサンソンの最新の地図に組み入れて刊行した。この原版はおそらくこの2、3年前に購入され、D・M・デュプレシスの1730年の「新地理学??」3巻本に組み入れられたものであろう。 原版の摩滅は、表題に見られる[IA]文字の喪失や、海のけばが薄くなったことで分かる。朝鮮の地理の特徴は、摩滅して空白となり、フランス改訂版では彫り直されている。 奇妙な18世紀の時代錯誤である。