No.113
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 中国帝国、朝鮮王国および日本諸島。 (EMPIRE DE LA CHINE, RME DE COREE ET ISLES DU JAPON) 」 
21×32(cm) 1780頃
【解説】: ボンヌはおそらく18世紀後期の最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。 アンドレによって魅力的に彫られ、地図は中国、朝鮮、および日本の極東を図示している。 ボンヌのこの地域を扱った他の地図と同様、日本の輪郭は、ダンヴィルの1737年のタタール地図、および後の1752年のアジアの地図から描かれている。これは18世紀に製作された群島の最上の輪郭の一つであろう。 ボンヌによって発行された極東地域のわずかに異なる多くの地図は、彼の作品が人気を持ち続けていたことを証明するものである。

No.114
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 中国帝国、朝鮮および日本諸島 (IMPERO DELLA CHINA COLLE ISOLE DEL GIAPPONE...) 」 
40×31(cm) 1784
【解説】: ヴェネチアで出版された1784年のザッタの「新地図帳」に、初めて発表された魅力的な中国、朝鮮および日本の地図である。 この地図は、海南島やマカオから北海道の南端まで広がっている。この地域の輪郭はダンヴィルの1737年と1752年の地図、およびル・ルージュの1748年の地図に基づいており、日本はおそらく18世紀の最も正確に描写されたものの一つである。この地図はザッタ、1785年の「新地図帳」に出ている日本地図と興味ある対照を見せている。こちらは、もっとずんぐりと太ったベランの1735-36年の地図とヴォゴンディの1750年の地図を踏襲している。 装飾的な表題の花枠は、花のデザインと孔雀を取り入れて、右下に見える。地図のデザインは、1762年にラットレが出版したボンヌ作成の地図と非常に類似しており、これが見本として使われたのであろう。

No.115
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 中国帝国、朝鮮および日本諸島 (IMPERO DELLA CHINA COLLE ISOLE DEL GIAPPONE....) 」 
40×31(cm) (1784)1795
【解説】: ザッタのヴェネチアで出版された1784年初版の「新地図帳」に発表された中国、朝鮮および日本の地図の重版で、1795年刊行の魅力的な地図である。 この地図は1784年版と、表題の日付の変更以外は、全ての点で同一のものである。

No.116
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 日本帝国 (L'IMPERO DEL GIAPON...) 」 
40.5×31(cm) 1785
【解説】: 18世紀後半で最上のイタリア地図帳の一つであるザッタの「新地図帳」の第14巻に発表された魅力的なイタリア地図の非常に立派な一例である。 ベランとドゥ・ヴォゴンディの輪郭から忠実に複写され、日本諸島は以前の描写と比ベより北東に湾曲している。ベランとドゥ・ヴォゴンディの地図の聞を取った妥協の証しとして、ザッタはヴォゴンディの本州の北端の湾曲した北の湾の輪郭を複写したが、その他のほとんどの点では、ベランを踏襲した。 7つの地方区分は、従来からの66地域と同じ様に明確に印されている。 魅力的な表題の花枠は完全なオリジナルの色彩で、適切な東洋のモチーフと装飾と共に左上に見える。

No.117
作者不明 ( Anonymous ) 

「 中国帝国、日本諸島および朝鮮を含む (L'EMPIRE de la CHINE avec les Isles DU JAPON et la Coree.) 」 
25×18(cm) 1785頃
【解説】: パリで1785年頃に出版された魅力的な小さな銅版の中国と日本の地図。 地図は中国と日本の情報源と輪郭を、ダンヴィルの地図から取り入れ、日本の3つの主な島はどれも地図の極端に右側に図示されている。しかし東北地方は短縮され歪められている。これはおそらく彫工が島々を地図の枠内に収めようと努力したせいであろう。 表題は魅力的ではあるが、やや荒っぽく彫られた花枠の中で左下にあり、中国人高級官僚が手にキセルを持ち、パラソルの下で小鳥を腕にのせている図がある。

No.118
クック, キャプテン J ( COOK, Capt James ) 

「 南太平洋の南部の地図 (CARTE DE LA PARTIE SEPTENTRIONALE DE LA MER DU SUD...) 」 
37×23.5(cm) 1785頃
【解説】: このフランスの海図は、18世紀後半のフランスの航海編纂書物に収められており、クック隊長の3度目の航海と、また1779年2月ハワイにおける同隊長の死後、クックの後を継いだ2人の司令官と乗組員の探検の航跡を示している。 地図は1778年の3月から9月までの北西海岸探検の前半部分の重要な発見を示している。クックはブリティッシュコロンビアの一部、アラスカの入り江、およびアリューシャン諸(列)島を海図に記し、そしてベーリング海峡を危険を冒して航行した。冬になってハワイに戻って、彼は1799年2月、原住民に殺されるという悲劇で終わった。探検の指揮は先ずクラークに、ついでゴアに任され、探検はカムチャッカおよびアジア側のべーリング海峡の海図を記して1779年7月に最も北の緯度に到達した。日本の北の海岸は1779年の冬に水路が測定された。 クックの数度の航海に対する広範な人気と影響を示し、また北太平洋の地図製作を改定させたクック最後の探検の強い影響を示すものである。

No.119
作者不明 ( Anonymous ) 

「 新所見による日本諸島および朝鮮を含む中国帝国 (L'EMPIRE de la CHINE avec les Isles DU JAPON et la Coree Assujetties aux nouvelles Observations.) 」 
26×20(cm) 1785頃
【解説】: パリで1785年頃に出版された魅力的な小さな銅版の中国と日本の地図。 中国と日本西部の一部の輪郭はいずれも、この地域の同時代の他の地図と比べて、異常にぎざぎざの出入りが多い。 地図は中央アジアから朝鮮そして、日本の一部までである。九州、四国、本州西部は江戸までしか描かれていない。表題は左下に小さな花綱の花枠の中にある。 魅力的で小さな18世紀後半の銅版である。

No.120
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 日本諸島を含む中国帝国地図 (CARTE DE L'EMPIRE DE LA CHINE AVEC LES ISLES DU JAPON...) 」 
21×32(cm) 1786
【解説】: この魅力的な極東の銅版地図は、多作のフランス人地図作成者であるボンヌ (1727-1795年)によって、おそらく彼の最後の地図帳となった1787-88年出版の「百科事典地図帳」に発表された。ボンヌによって極東のこの地域は6枚以上描かれたが、これはそのうちの1枚である。 地図は中国東部の海岸と、台湾、朝鮮、日本および北海道の一部を図示している。日本の輪郭は、ボンヌの多くのこの地域の他の地図と同様、ダンヴィルの初期の輪郭を踏襲し、朝鮮は実際より大きく、日本は18世紀に作成された物の中では最も精緻で正確な輪郭の図形である。興味深いのは、ボンヌは本州の北に島を描いているが、蝦夷としてではなく、「マツァキ」としているが、おそらくはマツマイのなまりであろう。

No.121
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本帝国地図 (KORTOVER RIGET JAPON...) 」 
31×21(cm) 1790頃
【解説】: この非常に珍しいデンマークの地図は、プレヴォの「旅行記集」に発表された、ベランの1752年の小型地図を後にデンマークで彫ったものである。 プレヴォ全集の人気は大きくて、多くのヨーロッパ語で広く再発行されたが、このデンマーク版はコペンハーゲンで1790年頃に出版されたもので、最後でまた最も好奇心をそそるものである。 I・ハアスの彫ったこの地図は、プレヴォ版のベランの原図を、ほとんど厳密に踏襲し、地図製作または地誌的な変更は全く加えていない。そしてベランの作品の顕著な特徴である表題のロココ調の装飾をよく保っている。 非常に珍しい数少ない版である。

No.122
セイヤー, R ― ローリー& ウィットル ( SAYER, R. - LAURIE & WHITTLE ) 

「 7つの主な地域に分割された日本帝国図、朝鮮も含む。 (THE EMPIRE OF JAPAN DIVIDED INTO ITS SEVEN PRINCIPAL PARTS...) 」 
63.5×48(cm) (1790)1794
【解説】: 日本と朝鮮の大判で詳細な2折判地図は、1790年ロンドンで出版されたセイヤーの「一般地図帳」に初めて発表された。これは、1794年日付のローリーとウィットルによる初版である。 表題は、その情報源を「ケンペルとポルトガル人」と記しているが、セイヤーや、ローリーおよびウィットルの発行した多くの地図は、ダンヴィルとヴィゴンディによる18世紀フランスの地図から直接取られ、またこの地図の見本は、ヴィゴンディの1750年の日本地図であることが明白である。 朝鮮は全体が図示されているが、実際よりかなり大きくまた過度に強調されている。日本の主な3つの島は、7つの大きな地方に分けて描かれ、北海道は北の方に南部の先端が図示されている。 魅力的なまた詳細な18世紀のイギリス地図は、18世紀前半のフランスの地理製作者達の影響力が広範に行き渡っていたことを示すものである。

No.123
ドゥ=ヴォゴンディ, R ( DE VAUGONDY, Robert ) 

「 日本帝国 (L'EMPIRE DU JAIPON) 」 
53.5×48(cm) (1750)1792
【解説】: これは、1750年パリで刊行されたヴォゴンディの「世界地図帳」に初めて発表された彼の重要で魅力的に彫られた日本地図の重版である。 この重版は、1790年代の始めにドゥ・ヴォゴンディを引き継いだC・F・デラマルシェ(1740-1817年)によるもので、1750年版の中央にある楕円形花枠の表題から1750年の日付が取り除かれた以外は、全ての点で同じである。

No.124
ダン, S ( DUNN, Samuel ) 

「 地方(省)別に区分された中国と日本諸島... (CHINA DIVIDED INTO ITS GREAT PROVINCES and the ISLES OF JAPAN...) 」 
44.5×31(cm) 1794
【解説】: この魅力的な18世紀末の地図は、数学者でロンドンのチェルシーの先生であったダンによって彫られた。 この地図の初版は1774年のダンの「世界体系の新地図帳」の中に出ており、後に、この地図と同じ1794年日付で、ローリーとウィットルの会社から再発行された。 地図の情報源は、以前のフランス地図から直接引用され、とりわけ、ダンヴィルの中国(1737年)とアジア(1752年)からで、これは18世紀の極東地図の中では最も影響力のあった地図である。 地図には、過度に大きな朝鮮と、日本は主な3つの島と、北海道の南端が描かれている。中国は「省別に分けて」図示されている。 興味深い地図で、イギリスにおいて、18世紀末までダンヴィルの地図が引き続いて影響力があったことを示すものである。

No.125
ラ=ペルーズ ( LA PEROUSE, J. F. G, Comte de ) 

「 ラ・ペルーズはデ・フリースの誤りに終止符を打つ 1797年 1787年の諸発見による一般地図 (La Perouse lays to rest De Vries'errors 1797 CARTE GENERALE DES DECOUVERTES faites en 1787...) 」 
68.5×59(cm) 1797
【解説】: この精巧な銅版地図は、1797年のラ・ペルーズの世界一周航海のフランス語版の地図帳に発表されたものである。 ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッピン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年、デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲、とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通訳をした青年F・ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。 重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。

No.126-1
ラ=ペルーズ ( LA PEROUSE, J. F. G, Comte de ) 

「 1787年中国およびタタールの海域における諸発見を記した海図でブッソールおよびアストロラーベによる... (CHART OF DISCOVERIES made in 1787 in the SEAS of CHINA and TARTARY by the Boussole and Astrolabe...) 」 
49.5×37.5(cm) 1797
【解説】: この精巧な銅版地図は、1798年ロンドンで出版されたが、これは1797年ラ・ペルーズの世界一周航海の2枚のフランス語版の縮小サイズ版である。 ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッビン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通訳をした青年ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。 重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。

No.126-2
ラ=ペルーズ ( LA PEROUSE, J. F. G, Comte de ) 

「 1787年中国およびタタールの海域における諸発見を記した海図でブッソールおよびアストロラーベによる... (CHART OF DISCOVERIES made in 1787 in the SEAS of CHINA and TARTARY by the Boussole and Astrolabe...) 」 
49.5×37.5(cm) 1797
【解説】: この精巧な銅版地図は、1798年ロンドンで出版されたが、これは1797年ラ・ペルーズの世界一周航海の2枚のフランス語版の縮小サイズ版である。 ラ・ペルーズの探検は、18世紀後半の多くの偉大な太平洋航海の中の一つに数え上げられる。その主要な地図製作上の成功は、北太平洋のアジア側のほとんどを海図にしたことであり、実にこの地図はフィリッビン諸島のマニラから朝鮮およびカムチャッカまでの航路を図示している。ラ・ペルーズは1643年デ・フリースのオランダ探検の誤りを正した最初の西洋人地理製作者であった。今なお彼の名のついたサハリンと北海道の間の海峡を帆走した最初の西洋人として、ラ・ペルーズはサハリン島の詳細な情報を提供した。千島諸島の奇妙な歪曲とりわけデ・フリースの「会社の土地」は、ラ・ペルーズがカムチャッカへ航海を進めて最終的に正された。この最新の海図と航海日誌は、航海中ロシア語の通s訳をした青年ルセップに託されて、陸路フランスへ送られた。この探検隊はその後消息が絶え、その残骸は30年ほど後に、太平洋のヴァニコロ島で発見された。 重要な地図で、北太平洋のアジア側の海岸と様々な島の正確な実写を提供した最初のものである。