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No.127 アロウスミス, A
(
ARROWSMITH, Aaron
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
40×24(cm)
1807
【解説】:
魅力的な19世紀初頭の地図は、「アロウスミス氏の監修の下に描かれ」ローリーによって彫られ、1807年ロンドンで、ロングマン、ハースト、リーズおよびオルムの会社によって出版された。
引き合いに出されたアロウスミス氏は、A・アロウスミス(1750-1833年)で、18世紀末および19世紀初頭、地図作成者のイギリス名門会社の一つを創立した。この地図が、1724年に創立され現在なお一流のイギリスの出版社であるロングマン社によって当然なことながら出版されたというのは興味深い。
日本は、18世紀末の改良された輪郭である、1790年のセイヤー地図を踏襲している。しかし本州は、特に北の地方が、なおかなり短縮され歪んだ輪郭である。国は地方と地域に区分されている。朝鮮はなお大きく過度に強調されている。日本の輪郭は、編状線の海が諸島を取り囲み、独特の彫りによって強調されている。
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No.128 ピンカートン, J
(
PINKERTON, John
)
「
日本
(JAPAN)
」
65×50(cm)
1809
【解説】:
精巧な諸島(島々)の大判地図は、1809年にロンドンで、キャデルおよびデイヴィーズの会社と、ロングマン、ハースト、リーズおよびオルムの会社の両方の会社によってJ・ピンカートン(1758-1826年)の「現代地図帳」のために出版された。ピンカートンはエディンバラの地理学者でまた出版者であった。「現代地図帳」は1809年から1814年までに部分的に出版され、1815年に完全な地図帳の体裁で出版された。このことが、この初期の刊行はロンドンで印刷されたことの理由かもしれない。
1814年のトムソン地図と同様に、しかしもっとまれなことに、3つの主要な島の全部と、かなり大きな朝鮮とを図示していて、北海道の南岸の輪郭は不完全に示されている。
ニールによって彫られた地図は、全般の輪郭は、特に北東部分の本州の湾曲はさらに正確になったが、しかしこれは地図が幾分傾斜した表現となり相殺されている。66の地域は区切られ主な都市は図示されている。
魅力的な詳細な19世紀初期の地図である。
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No.129 ドゥ=ヴォゴンディ流儀
(
After: DE VAUGONDY, Robert
)
「
記録にないドイツのミニアチュア判 1811年
ロベールの図面による7地方に区分された日本地図。ワイマール。地理学会発行
(An unrecorded German miniature 1811
Charte von JAPAN mit seinen VII Provinzen nach Robert's Entwurfe. Weimar in verlag des Geogr.)
」
20.5×18(cm)
1811
【解説】:
ドゥ・ヴォゴンディの1750年パリで初めて出版された「世界地図帳」の大判2折判地図の非常に興味あるミニアチュアのドイツ語の複写である。この地図は1811年ドイツのワイマールで出版されたようである。
ロベールの地図は、デラマルシェによる数回の重版や1778年ヴェネチアで出版されたイタリアの複写によってさらに普及した。
しかし、この地図は、どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていないので、ナポレオン時代に、フランスの地図帳や地図製作の資料が、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ全域に、ナポレオンの「大陸制度」統治が広く行き渡ったことで、中央ヨーロッパでも入手可能になったことの産物であろう。
地図はドゥ・ヴォゴンディの1750年の地図の全ての詳細を変更せず複写し、この時代のヨーロッパ地図に通常図示される7つの地方区分と、66の地域を明確に記している。これと非常に類似したミニアチュア地図が、翌1812年プラハでも出版されている。
興味深い、また非常に珍しい一品で、ロベールの作品がヨーロッパで普及したことおよび19世紀初期においても時代遅れの情報がヨーロッパの地図製作者によってなお使用されていることを示すものである。
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No.130 ドゥ=ヴォゴンディ流儀
(
After: DE VAUGONDY, Robert
)
「
ロベールの図面による7地方に区分された日本地図。1812年、プラハ
(Charte von JAPAN mit seinen VII Provinzen nach Robert's Entwurfe. Prag 1812.)
」
20.5×17.5(cm)
1812
【解説】:
ドゥ・ヴォゴンディの1750年パリで初めて出版された「世界地図帳」の大判2折判地図の非常に興味あるミニアチュアのドイツ語の複写である。この地図は1812年の日付でプラハの刻印がある。
ロベールの地図は、後にデラマルシェが刊行した数版や、1778年ヴェネチアで出版されたイタリアの複写によってさらに普及した。
しかし、この地図は、どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていないので、ナポレオン時代に、フランスの地図帳や地図製作の資料が、ヨーロッパ全域に、ナポレオンの「大陸制度」統治が確立されて、中央、東ヨーロッパでも入手可能になったことの産物であろう。
地図はドゥ・ヴォゴンディの1750年の地図をそのまま複写したもので、この時代のヨーロッパ地図に通常図示される7つの地方区分と、66の地域を明確に記している。
興味深い、また非常に珍しい一品で、ロベールの作品がヨーロッパで普及したことおよび19世紀初期においてもなお、時代遅れの情報をヨーロッパの地図製作者が日本を描くために使用していることを示すものである。
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No.131 ラピ, P
(
LAPIE, Pierre
)
「
中国帝国および日本
(EMPIRE CHINOIS ET JAPON)
」
30×22(cm)
1812
【解説】:
この魅力的な中国および日本のフランス地図は、ラピの1812年の「古典世界地図帳」のために、フランス人彫工ジラルドンによって描かれ、J・B・M・シャムンによって彫られた。
地図そのものは、中華帝国を中央アジアおよびチベットからモンゴルおよび満州に至るまで図示している。日本諸島は、北海道およびサハリン島とともに描かれている。北海道は「蝦夷またはマツマイ」とされている。群島の主な都市は明らかにされている。
表題は右下に、魅力的な葡萄葛模様の枠にパゴダやジャンク帆船と東洋の戦士を背景に見える。
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No.132 ミルバーン, W
(
MILBURN, William
)
「
日本諸島
(ISLANDS OF JAPAN)
」
26.5×21(cm)
1813
【解説】:
この素晴らしい日本と朝鮮の銅版地図は、ミルバーンの珍しい地理書で、東インド諸島、中国、および日本の地理学的な記述「東洋の通商」に含まれている。
ミルバーンは東インド会社の社員で、会社の仕事でインドと中国へ幅広く旅行し、これらの質素に彫られた明瞭な地図と共にこの地域の交易および通商の詳細な記述をしている。
ミルバーンの本は1813年にロンドンで、ブラックおよびペリィによって出版された。
珍しい19世紀初めの銅版地図である。
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No.133 トムソン, J
(
THOMSON, John
)
「
朝鮮と日本
(COREA AND JAPAN)
」
63×50(cm)
(1814)1820
【解説】:
魅力的な19世紀初めの日本と朝鮮の地図で、1814年以降エディンバラで出版されたトムソンの「新一般地図帳」の中に発表された。
1809年のピンカートンの地図に、様式と詳細は似ているが、しかし諸島の全体の輪郭は、特に東北がよい。朝鮮はなお大きすぎてまた強調され過ぎている。
これは、ホールの1816年の「朝鮮の西海岸ヘの航海」からの手短な描写が左下の隅にありそれに朝鮮の西海岸にいくつかの島が追加された同じ版の第2版の地図である。この第2の方の版は後にG・フィリップによって、彼の1851年の地図に複写された。
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No.134 カークウッド, R
(
KIRKWOOD, Robert
)
「
日本
(JAPAN.)
」
35×28(cm)
1817
【解説】:
この魅力的な銅版日本地図は、1817年エディンバラで出版されたカークウッドの「一般地図帳」のために、カークウッドが彫り出版したものである。
カークウッドは1815年のセントヘレナの地図と1817年の2枚の詳細なエディンバラ地図で知られている。彼は1818年この地図帳の刊行後、まもなく死亡した。
この「一般地図帳」は世界の全ての地域の44枚の地図を所載し、この日本の魅力的な地図は、多くを18世紀のダンヴィルとル・ルージュの地図から引用している。朝鮮の東部の海岸と日本の3つの主な島が描かれている。カークウッドはダンヴィルとル・ルージュが初めて提起した本州の北東の曲線を継承している。地方の区分と各地方の主な都市は図示されている。
興味深いまた希な地図で、18世紀フランスの地図製作の時代遅れの情報源の影響が続いていることを示している。
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No.135 ロッシ, L
(
ROSSI, Luigi
)
「
日本
(GIAPPONE)
」
25×20(cm)
1820
【解説】:
単純で明瞭に彫られたイタリア地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された日本の3つの主な島を描いたフランス地図から忠実に複写されている。
装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィルの1737年のタタール地図船よび1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。
この地図は、ミラノのボルディガ兄弟の会社で彫られ、1820年ミラノでロッシが出版した「新世界地図帳」に発表された。
19世紀の珍しい銅版である。
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No.136 ビュアーシュ, J. N
(
BUACHE, Jean Nicolas
)
「
日本
(JAPON)
」
25×20(cm)
1820頃
【解説】:
単純で明瞭に彫られた日本の3つの主な島のフランス地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された。
装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィル1737年のタタール地図および1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。
この地図のイタリア版は、ミラノのF・ボルディガにより彫られ、1820年ミラノでロッシにより出版された。
19世紀の珍しい銅版である。
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No.137 ブリュ, A. H
(
BRUE, Adrien Hubert
)
「
中国帝国および日本の一般地図
(CARGE GENERALE de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...)
」
51×36(cm)
1821
【解説】:
この精巧に彫られた詳細な中国および日本地図は、1821年パリで、ブリュ(1786-1832年)によって出版された。1816年初版の彼の「世界地図帳」に出ているが、しかし、この地図は1821年の日付がある。
この時代のフランス地図と同じように、北部インドとチベットから中国のモンゴル地方の北部区域までと満州まで広がっている。アジアの東海岸は海南島から日本、北海道、南千島諸島およびサハリンまで図示されている。サハリンは中国領土の一部として、また千島諸島は日本の領土の一部として示されている。
この地図はまた、全てのブリュの地図を本物と証明し、この時期パリで問題であった薯作権侵害を防止するため、ブリュの特別のスタンプが押されていることでも興味深い。
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No.138 タルデュー, A
(
TARDIEU, Ambrose
)
「
中国および日本地図
(CARTE DE LA CHINE ET DU JAPON)
」
56×41(cm)
1821
【解説】:
中国と日本の魅力的な2折判の銅版地図は、1821年のL・アルプの「旅行記集」のために、タルデューによって出版された。
地図は、中国全土および朝鮮、日本の3つの主な島を図示している。北海道は蝦夷島としてその南端のみが記されている。3つの島の輪郭は、特に本州北部の形と方位が顕著であるが、いっそう正確になった。
魅力的な渦巻き模様の表題が右下にあり、その下にフランスマイルと海里の縮尺がある。
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No.139 アロウスミス, S
(
ARROWSMITH, Samuel
)
「
日本
(JAPAN)
」
29.5×23(cm)
1823
【解説】:
アロウスミスによって1823年ロンドンで出版された精巧に彫られた地図である。製作者サミュエルは、18世紀末および19世紀初頭に最も影響力のあるイギリスの地図製作一家に数え上げられた創設者A・アロウスミスの息子である。父アアロンは1798年に刊行された9枚からなる太平洋の地図の極東地図作成で最も良く知られている。
この小型の4折判地図は、この時代に、サミュエルとその兄弟アアロン・ジュニアによって出版された多くのアロウスミス地図帳の一つに出ている。
日本は、ピンカートンおよびトムソンによって使用された1809年と1814年の輪郭を見本としており、本州の輪郭が幾分改良され、まだ東北が強調され過ぎてはいるが、湾曲した北東の弧を描き前よりは正確に図示されている。
1820年代の魅力的なイギリスの鋼版彫りの地図である。
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No.140 アロウスミス, A ― タナー, H. S
(
ARROWSMITH, A. - TANNER, H.S
)
「
日本帝国
(EMPIRE OF JAPAN)
」
40×24(cm)
1825頃
【解説】:
魅力的な19世紀初期の地図はタナーによって彫られたもので、これは1807年のA・アロウスミスの地図の再発行で、タナーが彫工であるとのインプリントのみがある。フィラデルフィアのH・S・タナーは、いくつかの精巧なアメリカ州地図帳で良く知られているが、特にその1813-23年の「新アメリカ地図帳」は有名である。
日本は18世紀末に向上した1790年のセイヤーの地図の輪郭を踏襲しているが、なおかなり本州は短縮されて、特に北の地域が歪んだ輪郭である。国は地域ごとに区分され本州は5つの地方に分かれている。朝鮮はかなり強調されて描かれている。
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No.141 ペロー, A. M
(
PERROT, Aristide Michel
)
「
日本帝国
(EMPRE DU JAPON)
」
16×16(cm)
1826
【解説】:
この奇妙な小ミニアチュア地図はペロー(1793-1879年)によってパリで出版された。ペローは1823年、イギリス諸島の地図帳のシリーズものと1825年のフランス県の地図帳で最も良く知られている。
この地図は一般地理学または特定のテーマの地図帳から引用されたようで、内陸の詳細は主な山脈が青と赤で強調されて示されるだけに限られて、個々の地域は番号が付けてあるがその記号表はない。左上の挿入画は沖縄および中央琉球諸島を図示しているが、これもまた詳細はない。
非常に奇妙で珍しい地図である。
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No.142 クルーゼンシュテルン
(
VON KRUSENSTERN, Adam
)
「
アダム・フォン・クルーゼンシュテルンの重要なロシア地図 1827年
日本帝国の地図
(Adam Von Krusenstern's important Russian map 1827
Carte de L'EMPIRE DU JAPON...)
」
61×88.5(cm)
1827
【解説】:
この精緻でまた詳細な大判地図は、1826年から1838年の間に、ペテルスブルクで出版されたフォン・クルーゼンシュテルンの太平洋の重要な地図帳の2つの章に出ている。
この地図はクルーゼンシュテルンが、1803年から1806年の間に「ナデージュダ」号および「ネヴァ」号に乗船して、最初のロシア世界周航で行った日本沿岸の調査に基づいたものである。
クルーゼンシュテルンは、1803年8月ロシア皇帝の密使として、在外通商公館を開きまた日本におけるオランダ以上の特権を得たいという目的で、長崎に到着した。日本との交渉が決裂して、翌年4月まで未決のまま監禁された。しかしこの探検の成果によって、フォン・クルーゼンシュテルンは、日本の西部の大部分を正確に調査したヨーロッパ人の最初の一人に数え上げられる。地図は、九州の全部、四国、東北東部を除く殆どの本州を図示している。右下の挿入図は、クルーゼンシュテルンの「ナデージュダ」号の航跡で、長崎ヘの進入航路を描いている。なお同船は一般地図にも描かれている。この地図はワイマール大公に献呈されている。
19世紀初期の日本にかんする最も重要なロシアの地図製作者および水路測量者の一人による非常に重要な地図である。
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No.143 アシェトン, J ― テグ, T
(
ASSHETON, John - TEGG, Thomas
)
「
日本
(JAPAN.)
」
25.5×20(cm)
1829
【解説】:
この日本の魅力的な小鋼版彫り地図は1829年ロンドンでテグによって出版された。J・T・アシャートンが作図し、J・シャーリーによって彫られた。シャーリーは同じ頃から始まったSDUK地図帳シリーズの彫工としてよく知られている。
この地図は、1814年のJ・トムソンの日本の3つの主な島の全てに朝鮮の東海岸の一部が描かれた地図を忠実に複写している。
表題は中央上に装飾的な四角形のなかに見える。
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No.144 作者不明
(
Anonymous
)
「
日本
(GIAPPONE)
」
7×10(cm)
1830頃
【解説】:
好奇心をそそる日本諸島の小地図は、おそらくイタリアの地理教育の地図として、または19世紀初め特に人気のあったトランプのカード地図として出版されたのであろう。
日本の3つの主な島が、正しい輪郭でまた北海道およびサハリン半島は形よく描かれている。奇妙なのは、北海道の北東に1643年デ・フリースによってスターテン島および会社の士地と名づけられた2つの広大な士地が、ここでは千島諸島南端の2つの島に名づけられて、なおそれが信じられていることである。地図の下側にそって、2、3の興味ある注釈があり、国の人口、農業、政治機構を述べている。
興味深いまた非常に珍しい地図である。
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No.145 ダウアー, J ― ティースデル, H
(
DOWER, John - TEESDALE, Henry
)
「
中国と日本
(CHINA AND JAPAN)
」
41×33.5(cm)
1831
【解説】:
この魅力的な中国と日本の地図は、1831年ロンドンで、ティースデルによって出版された「一般地図帳」のため、ダウアーが図形を描き彫った。
多作の彫工であったダウアーは、 19世紀半ばの重要なイギリス地図帳のほとんどの作品を手がけたが、とりわけ、T・モウルやグリーンウッド兄弟のイギリス郡地図帳で有名である。ティースデルの会社は1830年代に最盛期にあり、3つの主要な地図帳「新イギリス地図帳」「新旅行地図帳」そしてこの「一般地図帳」を出版した。
地図は中国全士およびそのチベットからモンゴルまでの進貢諸国、中国満州および朝鮮を図示している。日本は、サハリンと北海道と共に描かれ、サハリンは中国領士の一部として図示されている。
1830年代の魅力的なイギリス地図である。
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No.146 フォン=シーボルト
(
VON SIEBOLD, Philip Franz
)
「
日本およびその周辺諸島および保護領
(JAPAN MIT SEINEN NEBEN UND SCHUTZLANDERN...)
」
34.5×22.5(cm)
1832
【解説】:
この朝鮮、日本、北海道および千島諸島は、1832年に出版されたシーボルトの1823年から1830年までの彼の日本航海および日本滞在の記述のドイツ語版初版にPlate Ⅰ(図Ⅰ) として出てくる。
この地図はシーボルトが表題に説明しているように日本の木版地図「日本???」から取られたものである。表題は日本語で、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細、および1808年に発見された間宮海峡を描いている。
シーボルトは1823年に日本に赴任して、民族誌学、博物誌および地図製作の作品の系統的な収集を始め、日本についての広範な詳細な研究の基礎を築とうとした。しかし、 1829年、滞在の終わりを迎えて、外国人には法律上禁止されていた伊能忠敬、間宮林蔵、最上徳内の地図を入手して所有していることで、スパイ活動の容疑で逮捕され、1830年日本を追放処分された。
シーボルトの本は、1832年に刊行が開始され、一部は1858年に刊行されたが、彼の生前には完了せず、現在もなお完了していないが、19世紀の日本研究の最も重要な一つであり続けている。
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