No.147
アンドリヴォ ― グーヨン, J ( ANDRIVEAU - GOUJON, J. ) 

「 中国帝国および日本地図 (Carte de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...) 」 
50×38.5(cm) 1834
【解説】: この精巧に彫られた中国および日本の詳細地図は、1834年、パリで、出版業者兼地図販売業者のアンドリヴォーグーヨンの「世界地図帳」に発表された。 アンドリヴォーグーヨンの会社は、G・アンドリヴォ(1805- 1880年)とM・グーヨンの娘との結婚によって始められ、パリのルーエデュバックに設立以来19世紀の終わりまで続いた。 地図は、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。日本は地図の右端に、北海道と千島諸島の南端と共に描かれている。サハリンは中国と日本領に分けられて描かれている。 この時代のこの極東地域を図示した多数のフランス地図の1枚である。

No.148
S. D. U. K ― ボールドウィン & クラドック ( S. D. U. K. - BALDWIN & CRADDOCK ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
35×43(cm) 1835
【解説】: 実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって出版された興味深い19世紀前半の日本地図である。この協会はその目的を「有用な情報を全ての社会階層に伝達すること」とした社会改良団体である。本、雑誌および百科事典の大量の発行部数は、またこうした質素な彫りと詳細な地図シリーズと結びつき1829年から1832年の間に初めて一部が出版された。地図は、3つの主な島の輪郭がますます正確になり、地域の区切りや都市は全て記されている。右上の2つの挿入画は、長崎港と南千島諸島を描いている。魅力的で重要なペリー以前の地図は、なおその情報源に100年前のケンペルの作品と、ロシア人クルーゼンシュテルンの調査から引用している。クルーゼンシュテルンは、1826年から1838年にペテルスブルクで2部からなる太平洋地図帳を出版し、また19世紀初頭、秋田までの本州西部と九州の殆どの水路測定を行った。 SDUK地図は、普及版となり、この地図帳は1860年代終わりまで、ロンドンの多数の異なる出版社のインプリントで、情報を更新して再印刷された。

No.149
ウト, J. J. N ( HUOT, J. J. N. ) 

「 中国帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
30×22(cm) 1835
【解説】: この中華帝国と日本の小地図は、パリの彫工ティエリーによって、ウトによるC・マルテ-ブランの「世界地理」の改定版のために彫られた。1835年の日付がある。 地図は、この時代の多数のフランス地図と共通で、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。 日本は北海道と共に正確な輪郭で描かれていて、千島諸島の南端とサハリンも描かれている。千島諸島はロシア領土に属すことを示す色分けで、一方サハリンは中国と日本に分けられている。日本群島のどの部分にも内陸の詳細は全く示されていない。

No.150
ペロー, A. M ( PERROT, Aristide Michel ) 

「 日本 (JAPON) 」 
14.5×19(cm) 1837
【解説】: フランスの地理製作者ペロー(1793-1879年)は、1820年代および1830年代のイギリスおよびフランスのミニアチュア地図帳でよく知られている。 この小さな日本地図は、最も単純なデザインで、P・タルデューが彫ったものである。タルデューは18世紀末および19世紀はじめの有名なフランスの地図製作および彫工の一家に数えられる。 地図は、日本と中国の沿岸を描き、北海道、千島諸島および南サハリンは日本の領土として色付けされている。 19世紀初めの珍しいフランスの地図。

No.151
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本帝国の一般地図 (CARTE GENERALE DE L'EMPIRE JAPONAIS.) 」 
31.5×22.5(cm) 1838
【解説】: この朝鮮、日本、北海道および千島諸島の一般地図は、シーボルトの1823年から1830年までの日本ヘの航海および日本滞在を記述したフランス語の2折判のPlateⅠ(図Ⅰ)に出てくる。ドイツ語版の初版は一部が1832年に出ている。これは1838-40年のフランス語版である。 この地図は、シーボルトが表題に説明しているように、殆どそっくり複写しているドイツ語版と同様に、日本の木版地図「日本???」と題された日本の木版地図からから取られたものである。表題は日本語で出ており、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に取り囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細および1808年に発見された間宮海峡を描いている。 フランス語版は、A・ベルトランによる出版で、オレルアン公に献呈されており、1838年から1840年の間に5巻が、150の彫版を収録した1冊の地図帳と共に出ている。

No.152
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本国図。日本人による原地図および天文学観測にならって。(1975年、東京、講談社の複製版) (Philip Franz Von Siebold's important Map 1840 KARTE VOM JAPANISCHEN REICHE nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner...) 」 
55×39.5(cm) 1840
【解説】: この最も重要で影響力を及ぼした地図は、1832年から1859年に一部が出版されたシーボルト「日本、日本とその隣国および保護国についての記録文書」に出たものでこの地図は1840年の日付がある。 この地図はシーボルトの1823年から1830年までの出島滞在期問に入手した情報をまとめたものである。1829年、彼はスパイ容疑で逮捕され1830年日本から永久追放処分をうけた。この地図が最大の権威ある影響を及ぼしたのは、彼が伊能忠敬、最上徳内、間宮林蔵などの当時の一流日本地図製作者の多くから得た資料である。その中には、九州西方の小さな一群の島である奄美大島の詳細な海岸線の概観図も含まれる。長崎港もまた右下の挿入図に示されているが、シーボルトが1828年出島で作成したもので、かれの本にも出ている。地図は、日本の情報源を使用しただけでなく、1804-1805年に日本西部を包括的に調査し、その日本の大判地図を1827年に出した、ロシアの海軍提督クルーゼンシュテルンに依ったことも記している。 フォン・シーボルトの地図はその後、日本の地図の基礎となり、大きな影響力を持った。これは西洋と日本の地図製作者の文化交流による魅力的な産物で、19世紀半ばに発表されたとりわけ優れて正確な日本地図である。

No.153
ラピーと息子 ( LAPIE, Alexandre et fils ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、ラピー父子によって制作された。父子ともにフランスの「Etat Major」の将校でまたそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者でもあった。 P・タルデューが彫ったこの地図は、ラピーの1829年から1851年までの「世界地図帳」の様々な版に発表された。この地図は、右下の表題に1842年の日付がある。 地図は、中央アジアとチベットから北部満州、朝鮮および台湾におよぶ中華帝国を図示している。日本は北海道、サハリン、南千島諸島と共に描かれている。南千島とサハリンは日本の領土として示されている。

No.154
ラピー流儀 ( After: LAPIE, Alexandre ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842頃
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、初めてラピー父子によって出版された。父子共にフランスの「Etat Major」将校で、またそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者であった。 この地図は、1829年から1851年までのラビーの「世界地図帳」の様々な版に出ている。 この地図は、1842年ラピー地図と同じ世界地図および2折判の出版事項が刻印されているが、表題の下の部分は完全に消され空白である。 彫工ラルマンは、ラピーの地図に、いつも魅力的な渦巻模様の描写を描いた書写の彫工であった。地図帳の新しい版と共に、下の表題はそっくり彫り直さなければならなかったか、または地図の再発行を簡単にするため空白にされた可能性がある。 その他の全ての点で、この地図はラピーの地図と同じである。

No.155
ペルテス, J ― ベルクハウス, H ( PERTHES, J. - BERGHAUS, H. ) 

「 ダンヴィルとクラップロートにもとづいた中国・日本図 (KARTE VON CHINA UND JAPAN DEN MANEN D'ANVILLE'S UND KLAPROTH'S Genidmet. Potsdam von HB 1843) 」 
97×64(cm) 1843
【解説】: この大判の極東地図は、北部インド、ヒマラヤ、およびバイカル湖から朝鮮、日本、サハリンおよび千島諸島まで広がり、H・ベルクハウスの大判のアジア地図帳に出ており、1832年初めてドイツのゴータで、J・ペルテスによって出版された。 この地図は、その表題の参照にあるように、18世紀のフランス地図製作者ダンヴィルの情報を使用している。ダンヴィルは最新のイエズス会の報告書を基にした影響力のある1737年の中国地図、および1752年のアジア地図を作成した。この地図はまた、東洋についての作家であり旅行者であり学者であったH・J・フォンクラップロートの報告からも引用している。クラップロートは日本の地図製作者の問では、林子平の影響力のある「三国通覧図説」および蝦夷図(北海道)を複写しヨーロッパへ伝え、1832年ロンドンで初めて出版されたことで最もよく知られているだろう。彼はまた1806年にバイカル湖の地図を出版している。 この地図は興味深いテーマ別の色記号で、行政区分地域の境界を異なる色で区別した。北海道とエトロフは日本と図示され、残りの千島諸島はロシア領とされた。 この時代の多数の出版物を出したドイツ出版社の一つによる精緻な石版地図である。

No.156
ロシアン ( LOTHIAN, John ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
35×28(cm) 1844
【解説】: スコットランドの出版業者ロシアンによって、1844年に彼の「人民地図帳」に発表された魅力的な日本諸島の石版地図である。 地図は朝鮮の東海岸から本州の北部までで、北海道は右上の小さな挿入図に描かれている。 18世紀中葉のル・ルージュやダンヴィルのフランス地図を忠実に見本として、本州の輪郭はなお幾分歪められている。各地方は、地方ごとに町や都市と共に区分されている。 18世紀フランスの時代遅れの輪郭を使用した、珍しいスコットランドの石版地図である。

No.157
マルッゾラ ( MARZOLLA, Benedetto ) 

「 日本帝国 (IMPERO DEL GIAPONE) 」 
43×58(cm) 1847
【解説】: ナポリで、マルッゾラの「地理学地図帳」に発表された珍しい日本の大判地図で、イギリスのアロウスミスおよびSDUKの地図を見本としている。 地図は北は南千島諸島まで日本の全ての4島を組み入れている。左上の大きい挿入図は長崎港と港町を描き、一方地図の周囲には日本に関する地理、政治、住民、宗教、商業、農業についての詳細な説明文がある。 興味のある珍しい19世紀中葉のイタリアの日本地図である。

No.158
シャープ, J ( SHARPE, John ) 

「 東南アジア ビルマ-中国-日本 (SOUTH EASTERN ASIA BIRMAH-CHINA-JAPAN) 」 
41×31.5(cm) 1848
【解説】: シャープ(1777年一1860年)は、イギリスの地図製作者で、1847年から 1849年までにロンドンで出版した「通信地図帳」で良く知られている。この精緻な石版地図は、その地図帳からのものであるが、彫工J・W・ローリー(1803-1879年)および出版業者チャップマンとホールが、1848年日付で出版事項に印されている。 地図は北東インドビルマとチベットの東南アジアから中国、朝鮮、日本と北海道およびフィリッピン諸島を図示している。 日本については、主な都市と主たる地理的な特徴以外はほとんど詳細はない。

No.159
フォン=シュテュルプナーゲル ( VON STULPNAGEL, Franz ) 

「 中国および日本 (CHINA UND JAPAN) 」 
38×27(cm) 1850
【解説】: この精巧な石版地図は、1850年版のA・シュティーラーの「常用地図帳」のために、シュチュルプナーゲルが彫ったもので、おそらく19世紀のドイツ地図帳で最も人気がありまた最も版を重ねたものである。この後の全ての重版はドイツのゴータで、J・ペルテスによって出版された。1850年の版は63点の地図をふくんでいる。 地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。地図の下に書かれた文は、中国の地方区分と政治区分をしるしている。ヨーロッパに対して開港された中国の港は色で下線が引かれている。 興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。

No.160
フレミン, A. R ( FREMIN, A. R. ) 

「 中国と日本 (CHINE ET JAPON) 」 
26×20(cm) 1850頃
【解説】: この小型の中国および日本の石版地図は1850年頃にパリでフレミンによって出版された。フレミンは地理学者であり、出版者でまた影響力のあるフランスの地図製作者J・B・ポアソン(1760-1831年)の弟子であった。フレミンはフランスの陸軍省に所属し、彼の最も良く知られた仕事は1844年、A・ドネと一緒に出版したフランスの地図帳である。 この地図は、トルキスタンおよびチベットの国境から満州までの全中国、朝鮮、そして北海道およびサハリンを含む日本全体を図示している。興味深いことに中国満州の国境はアムール川の北の山脈まで広がって、またサハリン島は当初は日本の領士の一部として色で示されていた。

No.161
タリス, J ( TALLIS, John ) 

「 J・タリスは装飾的地図製作を復活させる 1850年頃 日本と朝鮮 (John Tallis revives decorative mapmaking c1850 JAPAN & COREA) 」 
33×25(cm) 1850頃
【解説】: 19世紀の日本地図で最も魅力的なものの一つに数えられるこの地図は、タリスの「挿絵入り地図帳」に発表され、1851年の大博覧会を記念して、初めて完全な地図帳の形で刊行された。 精緻な地図は魅力にあふれた鋼版で装飾的な縁取りと挿し絵の場面が彫られていた。 地図はペリー遠征直前の鎖国時代の終わりを迎える時代の日本を描いている。 タリスの古い権威あるものへの信頼は、その挿し絵に示されている。大きな中央の江戸(東京)の景色は、直接モンタヌス(1669年)から取られ、同じように、櫂で漕ぐ日本の平底荷船は1692年のコロネリに出ていたものである。 この地図帳の寿命は比較的短いが、原版が絶えず改訂され、更新されたのがうかがえる。地図が販売された1851年から1865年頃の間の地図帳の人気と成功は、タリスが販売を行ったロンドン、ニューヨーク、エディンバラ、ダブリンと住所が変わっていったことに反映されている。 この版は出版事項に「J&Fタリス、ロンドンおよびニューヨーク」と記され、タリスが兄弟とニューヨークに事務所を開いた1849年頃から50年のものであろう。

No.162
タリス, J ( TALLIS, John ) 

「 日本と朝鮮 (JAPAN & COREA) 」 
33×25(cm) 1850頃
【解説】: この地図は、前出のタリスの地図に全ての点で同じであるが、後に重版された地図帳からのものと思われる。ロンドンおよびニューヨーク、J・F・タリス社、と出版事項が記され、先に列挙した後の2つの住所へ移る前であろう。

No.163
ハンヅケ, F ― フレミング, C ( HANDTKE, F. - FLEMMING, C. ) 

「 中国・日本図 (CHINA UND JAPAN) 」 
39×30(cm) 1850頃
【解説】: このドイツの中国および日本の石版地図は、ハンヅケ(1815-79年)によって彫られ、ドイツ、グラガウのフレミングの会社で出版された。 この地図は、中華帝国全域を、中央アジアのバイカル湖およびチベットから、台湾、朝鮮、満州、日本およびその北の島々までを描いている。 異なる地域の政治区分は、右下に色記号表が付けられ、また地域の面積や人口の詳細を記している。日本は、日本本土と、北のアイヌ社会の北海道、南千島および南サハリンからなっている。

No.164
レヴァシール, V ( LEVASSEUR, Victor ) 

「 中国帝国および日本帝国、および琉球王国。 (Empires CHINOIS et JAPONNAIS et Royme de Lieou-Kieou) 」 
31×21.5(cm) 1850頃
【解説】: この魅力的な石版地図は、C・スミスが、F・E・ジョルジュの協力を得て彫ったもので、1850年頃パリで、レヴァシールによって出版された。レヴァシールは1845年初版のフランス地図帳で良く知られている。これはこの時代の小型4折判の世界地図帳からの地図のようである。 地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。当初の輪郭に使われた色は、北海道、サハリンおよびエトロフの南千島諸島は日本としている。地図は装飾的な華麗な縁取りで囲まれている。 興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。

No.165
ダウワー, J ( DOWER, John ) 

「 中国と日本 (CHINA AND JAPAN) 」 
26×21(cm) 1850頃
【解説】: この魅力的な小地図は、ロンドンのペントンヴィルのダウワ一が作図して彫り、彼の小型4折判の地図帳の一つに発表されたもので、19世紀中葉の地図帳の出版社として有名なロンドンのオア社によって出版された。 地図は、中国とその進貢国(属国)の地域である北部インド国境およびチベットから満州北部、日本、サハリン、千島諸島までを描いている。 色区分で、南サハリンと南千島を日本領士としている。中国については、自由港と香港をはじめとするイギリス領は赤い下線が引かれている。 さらにこの地図の興味ある特徴は、中央アジアから黄海までの領士の断面図が地図の下に沿って出ている。

No.166
作者不明 ( Anonymous ) 

「 無題:日本帝国 (Untitled: EMPIRE DU JAPON) 」 
20×22(cm) 1850頃
【解説】: この詳細なしかし作者名のない無題の日本諸島の地図は、1840-50年頃のものと思われる。おそらくフランスの地理の地名辞典か、この時代の航海記に出たものであろう。 地図は朝鮮沿岸と満州の一部および、北海道や南千島の描かれた日本諸島を図示している。北海道の詳細は非常に限られているが、日本本土については、主な都市、地域区分および地誌的な特徴が記されている。おそらく最も面白いのは、長崎から江戸までの街道が点線で明らかにされていることである。