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No.74 モル, H
(
MOLL, Hermann
)
「
現代史に沿った中華帝国と日本島
(The Empire of CHINA and Island of JAPAN Agreable to Modern History.)
」
24×25(cm)
1730頃
【解説】:
この精緻な銅版地図は、1725-1748年の間に版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。この地図は、後にやや小型になって再彫され、2折判の参照文(引用文)と新たに追加された注釈が興味ある読み物となっている。
地図の右下の端には、中華帝国の注釈があり、北海道の北には、次の面白い注意書きがある。「日本は島なのか、蝦夷地によって大陸の一部に連なっているのかはまだ結論が出ていない。大きな行く手をさえぎる山々によって連絡が閉ざされている。蝦夷地はタタールの一部なのか、腕のような細長い海によって、分断されているのかは明白ではない」
その他の点では、地図の地図製作法は同じである。
18世紀初期の最も人気があり、また多作のイギリス地図製作者の一人による魅力的な地図である。
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No.75 ミルネ, R (彫工)
(
MILNE, Robert (engraver)
)
「
トンキンから朝鮮に至る中国海岸、および日本諸島、台湾および中国沿岸沖の小さな目印に関する地図
(A Map of the Sea Coasts of China from Tonquin to Corea also of the Islands of Japan,...)
」
38×30.5(cm)
1730頃
【解説】:
ミルネにより彫られた興味のある非常に珍しい地図であるが、出所その他は不詳である。これは18世紀初頭のイギリスの中国および極東ヘの旅物語からのものである可能性が最も高い。
これは、大詐欺師プサルマナツァーの意外な新事実の記述に伴って発行されて、その後撤回された地図との類似点がある。
プサルマナツァーは、台湾人になりすまし、新しいアルファベットと言葉を捏造した。18世紀初頭にはロンドンの上流社会をまんまとだまして、オックスフォード大学で地位を得たが、大学の学者は彼のもたらした新しい言葉を研究したいと希望した。彼の台湾での経験話は1705年から1730年までに英語で出版された。確かに、プサルマナツァーの出現は、極東のこの地域に対するイギリス人の興味をかきたてた。
この時代に持ち帰られた様式化した日本の木版画地図が、ヨーロッパ人地理製作者によって複写されたことの影響によるが、本州は大幅に歪められている。内陸部の詳細はほとんど無く、大坂、江戸、長崎のみが図示されている。周囲の主な島々や航海ポイントと岬は明らかにされている。
珍しい一点である。
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No.76 モル, H
(
MOLL, Hermann
)
「
大タタール国。日本諸島
(GREAT TARTARY. The Isle of IAPON.)
」
18×16.5(cm)
1730頃
【解説】:
このタタール国と日本地図は、イギリス地図製作者モルによって制作され、1729年以降ロンドンで版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。
説明文の中に挿入された地図は2つの部分からなっている。上半分は、イエズス会のF・ヴェルビースト神父が1682年にたどった北京から満州のウラ市までのルートを図示している。ヴェルビーストこそ1675年、北京の観測所を再建し、1673年と74年に2枚の重要な中国地図を制作した人である。
地図の下半分は、ウズベキスタン、タルキスタン、モンゴル、満州からノヴァヤゼムリヤの北に至るまで中国北部地域を図示している。日本は地図の右下隅に示され、おそらくモルが描いた多くの輪郭の中でも最も奇妙な形である。先ず、本州は狭い海峡で北海道から隔てられているが、北海道そのものは大きなアジアの半島の一部となっている。さらに東に、モルは「スターテン島」のあるデ・フリースの輪郭を踏襲して、大きな不完全な会社の土地を「蝦夷地」と呼んでいる。
日本の北のアジア地域の興味のあるまた奇妙な地図である。
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No.77 ティリオン, I
(
TIRION, Isaac
)
「
新帝国日本図
(NIEUWE KAART VAN T'KEIZERRYK JAPAN...)
」
31.5×27.5(cm)
1735頃
【解説】:
ティリオンの1735年頃「新常用地図帳」に初めて発表された精緻で詳細な諸島地図である。
この地図はケンペルの2枚の地図から忠実に複写されたもので、1727年の2折判と1729/32年の小型の8折判であるが、これが非常に類似している。
地域の区切りは、長崎から都(京都)と江戸(東京)までのオランダの江戸参府のルートと共に示されている。北海道は明らかであるが、奇妙なことに本州の北の広大な土地は「カムチャッカ」と呼ばれ、この時代の北太平洋海岸線の混乱した地理製作を反映している。
諸島の精緻な地図で、次の10年で、広く複写され、また異なった版に再版されたものの一つである。
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No.78 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本諸島および周辺中国沿岸地図
(CARTE DES ISLES DU JAPON Et des costes de la Chine les plus voisins)
」
28×32.5(cm)
(1735)1736
【解説】:
この珍しいまた重要な地図は、1736年パリで最初に出版されたP・X・デシャルルヴォアの4折判「日本の歴史・地誌」の2巻に出ている。
この地図は、日本の北の島々の珍しい描写で興味深いものである。これは1727年のショイツアー-ケンペル地図の左上に見える挿入地図と輪郭が同じであり、これをショイツアーは最近のロシア地図が出典としている。
この地図は、明らかに1715年にカムチャッカに3つの探検隊が派遣された後、この地域のロシアの興味が増大したことによるものであり、またピヨートル大帝の数回の視察を機に、この地域の地図がますます数多くヨーロッパに出まわったことによるものである。この地域の地図は、デ・リスルとホーマンによって印刷されたが、とりわけ注目に値するのは1730年にホーマンにより出版された1枚のカスビ海およびカムチャッ力の地図である。
この地図は、北海道、サハリンおよびカムチャッカを混同して一つの細長い半島にしてしまった。ロシアの交易商人のルートは北極圏のレナからカムチャッカまで図示されている。この混同した輪郭は、デ・フリースが示した、エトロフとウルップのある千島諸島はスターテン島として、そして会社の土地はその東に空白のまま残された。
北方領地の魅惑的な地図である。
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No.79 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
1735-6年のベランの影響力のある地図
日本帝国地図...地図製作はベラン氏。1735年
(Bellin's influential map of 1735-6
CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON... Par le Sr Bellin... MDCCXXXV.)
」
53.5×42(cm)
(1735)1736
【解説】:
この日本の大判の地図は、1736年パリで出版されたP・X・デシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に初めて出ている。
この地図はその表題で、その情報源はポルトガル人とオランダ人およびイエズス会士の回想録であるとしている。ポルトガル人もイエズス会士も日本から100年近く排除されていた事実を考慮すれば、描写が幾分歪んでいることは驚くほどのことではない。
これに最も類似しているのは、1727年のショイツアー-ケンペル地図であるが、諸島の形は多少精密である。興味深いのは、ベランはオランダ人が長崎から辿った九州から江戸ヘの参府の通常のルートと共に、九州にこれまでヨーロッパの地図に示されなかった道路図を入れている。66の地域は日本の回りの島々に関する2つの注釈と共に示されている。
精巧で目立つ表題枠は、非常に装飾的なロココ様式の楕円形の花枠の上に、明るい太陽光線を放つ人物の頭が描かれ、扇子を持った日本婦人と火打ち式の小銃をもった侍の二人の日本人像が支えたものを組み込んでいる。
重要で影響を及ぼした地図で、18世紀を通じて広く複写された。
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No.80 ティリオン, I
(
TIRION, Isaac
)
「
日本帝国地図
(CARTA ACCURATA DELL'IMPERIO DEL GIAPPONE)
」
32×25(cm)
1738
【解説】:
1735年にアムステルダムで出版されたティリオンの「新常用地図帳」に初めて発表され、またケンペルの小型8折判の「歴史」に出ている類似の地図を見本とした、ティリオンの精緻な日本地図の魅力的なイタリア版である。
このイタリア版は、「全世界の国と人々の現状」と題され、G・アルブリッチにより、1738年にヴェネツィアで印刷されたT・サルモンの「歴史」のイタリア版に印刷された。この地図はフィリッピン諸島の地図と、小さく彫られた出島商館の鳥瞰図と共に、第2巻に出ている。
その他の点では、この地図は地理製作上また地誌的詳細はこれ以前のティリオン地図のオランダ版を踏襲している。
表題は左上の円形花枠の中に見える。
ティリオンの地図は多く再発行され、また類似のイタリア版がこれと同時に出た。
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No.81 ティリオン, I
(
TIRION, Isaac
)
「
日本帝国
(IMPERIO DEL GIAPPONE)
」
32×25(cm)
1740
【解説】:
1735年にアムステルダムで出版された、ティリオンの「新常用地図帳」に初めて発表され、またケンペルの「歴史」の小型8折判に見られる類似の地図を見本とした、ティリオンの精緻な日本地図の魅力的なイタリア版である。
このイタリア版は、表題が短いものに置き換えられている以外は1738年にG・アルブリッチにより印刷されたT・サルモンの「歴史」のイタリア版に印刷されたものとほぼ同一である。同じ図版と思われるこの地図は「ヴェニスの地図」と題され同じくヴェニスで1740年に印刷されたものをもとにしたイタリア版地図の第一巻にも印刷されている。
その他の点では、この地図は地理製作上また地誌的詳細はこれ以前のティリオン地図のオランダ版を踏襲している。
この数多く再発行された地図の珍しい版である。
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No.82 レランド, A ― オッテンス, R & I
(
RELAND, A. - OTTENS, R & I.
)
「
日本帝国
(IMPERIUM JAPONICUM...)
」
59.5×46(cm)
(1715)1745
【解説】:
この日本諸島の素晴らしく装飾的な地図は、有名な東洋学者、レランドによって出版され1715年に初めて現れた。彼の地図の2つの版は同じ年に出ており、このより装飾的な版が特に人気を博し、1745年頃までヴィッシャーやオッテンズの地図帳に再発行されてきた。これは1745年頃、アムステルダムで発行された最後の版で、R.&I.オッテンズの刻印がある。
興味深いのは、ライナーとヨシュア・オッテンズは、ケンペルの地図のオランダ版の複製も、1727年のケンペル「歴史」の原本からの都市計画およびルート図と共に発行している。
刻印を除くと、全ての点でこの地図は最初の1715年版の地図と同じであり、この事はレランドの作品および彼が複写した日本の木版地図が、18世紀の半ばまで、継続して人気を博しまた影響を持ったことを意味している。
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No.83 レランド, A ― ゾイター, M
(
RELAND, A. - SEUTTER, M.
)
「
日本帝国
レランド改訂版 1745年
(IMPERIUM JAPONICUM...)
」
57.5×46.5(cm)
1745
【解説】:
M・ゾイターによるレランドの素晴らしいまた装飾的な1715年の日本地図の複製地図として、この地図は1745年ドイツのアウグスブルクで、ゾイターの「新地図帳」に発表されている。
彫りは完全に新しく、中央にあった献辞は、レランドの地図では下に沿って記されていた地図の原版と出典についての記述と置き換えられていて、左下の詩文は替えられている。
その他の全ての点では、この地図はほとんど同じであり、また特に、66の地域名の記述に仮名文字を使用したことは注目すべきものである。レランドの前の地図と同じように、右下に、装飾的な紋章図案の装飾をともなった長崎の大きな挿入地図が見られ、また楕円枠の周りの様々な情景は1669年のA・モンタナスの彫りから複写されている。
精巧で装飾的な地図は、18世紀初頭のヨーロッパの地図製作仲間では日本の木版画地図に対する知識が高まり、またそれが継続して普及したことを示すものである。
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No.84 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本諸島、朝鮮...中国の地図
(CARTE DES ISLES DU JAPON... COREE... Chine)
」
28.5×21(cm)
1746
【解説】:
この日本、朝鮮および中国の海岸の一般地図は、A・F・プレヴォの「旅行記集」に、出ているが、この歴史書は、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚で、2巻に出ている。
10巻の他の日本地図と同じく、日本の輪郭はシャルルヴォアにより出版されたベランの以前の1735-6年の地図から取られている。
この地図は、ベランの全ての小型地図と同じく、右下に、魅力的なロココ様式の表題で装飾されている。
プレヴォの作品の人気は高く、まもなくオランダ語、ドイツ語で、また遅れてデンマーク語でも印刷された。
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No.85 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
東太平洋の広がり。スンダ列島、日本諸国...を含む。海軍技師N・ベラン作成。1746年
(SUITE DEL'OCEAN ORIENTALE Contenant LES ISLES DE LA SONDE... LES ISLES DU JAPON... Par N.Bellin Ingenr de la Marine 1746)
」
30×29(cm)
(1746)1761
【解説】:
この魅力的な東インド諸島の海図は、マラッカ海峡からニューギニアおよび日本まで伸びているが、A・F・プレヴォ1761年の「旅行記集」の17巻に出ている。
1746年から1789年の間に出版された網羅的な作品は、偉大な探検者や航海者の記述を描こうとしたもので、おそらく18世紀のフランスで最も知られた地理製作者および水路測量者の一人であるベランによって彫られた精巧な銅版地図のシリーズが添えられていた。
日本の輪郭は、2巻と10巻に出た他の地図と一貫性をもつ同一作品で、シャルルヴォア1736年の「日本の歴史・地誌」のために彫った大判の地図から忠実に複写されたものである。
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No.86 ボーエン, E
(
BOWEN, Emanuel
)
「
ポルトガル人およびオランダ人の回想を基にした日本帝国の新しいかつ正確な地図
(A New and Accurate Map of the EMPIRE of JAPAN Laid down from the Memoirs of the Portuguese & Dutch...)
」
43×35.5(cm)
1747
【解説】:
ボーエンの日本諸島の詳細な地図は、1747年ロンドンで出版されたボーエンの2巻本の地図帳「完全な地理体系」に初めて現れた。この場合と同じように、地図の多くはフランスの地理製作者ベランから直接に流用され、ボーエンはそれに依拠していることを表題で認めている。
ボーエンがほとんど正確に複写した地図は、1736年パリで出版されたシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に、ベランによって発表されたものである。
またこの地図が興味深いのは、面白いまた興味ある注釈が、特に本州の北に、北海道およびその住民について多く記されていることである。
ベランの地図を見本とした精緻な表題枠は、左上に、日本婦人と火打ち式小銃をもった侍に支えられて出ている。
キャンベルは2つの異なった版があると鑑定しているが、その一つは、図版の左下隅に42番とある2折判がこれのようである。
魅力的な18世紀のイギリス地図は、ベランの地図製作の幅広い影響を示している。
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No.87 ルージュ, G. L
(
LE ROUGE, George Louis
)
「
日本および朝鮮図
(CARTE DU JAPON et de la Coree)
」
27.5×20.5(cm)
1748
【解説】:
1748年パリで、ル・ルージュの「携帯新地図帳」に発表された珍しいフランスの地図である。
この輪郭はこの時代の他のどれよりもはるかに正確度が高く、その多くをダンヴィルの影響力のある作品、とりわけ1737年の中国タタールの2枚の地図に依拠している。これは大変精度の上がった日本の図を提供している。しかし朝鮮は誇張されている。
上中央の表題の装飾は、七福神の挿し絵があるが、これはケンペル「日本の歴史」の1727年のショイツァー-ケンペル地図に初めて現れた。
この後の版は、ル・ルージュに代わって、クレビの刻印で出ている。
魅力的でまた興味深い地図で、ダンヴィルの地図製作の影響を示し、また18世紀中葉の最も精巧で正確な日本の独立した図を作りだした。
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No.88-1 ホーマン, H
(
HOMANN Heirs
)
「
タタール中国地理学地図(タイトルは地図の上に横にフランス語でも表記、タタール中国および朝鮮・日本地図)
(TATARIAE SINENSIS MAPPA GEOGRAPHICA. (Title also in French across top of map: CARTE DE LA TATARIE CHINOISE /et des ROYAUMES DE COREE ET DE JAPON)
」
39.5×50(2)(cm)
1749
【解説】:
このタタール中国、朝鮮、および日本の精巧な2枚からなる地図は、H・ホーマン社の協力を得て、ドイツ人T・マイヤーによって作成され、1749年以降、ドイツニュールンベルクで、当時の2折判の多くの地図帳に発表された。
地図のタイトルは、その情報源を特にイエズス会の修道士達の報告書に依拠していることを示しているが、それは1698-99年に「タタールへの航海」を書いた、ジャルビヨン???だけでなく、またダンヴィルにも依拠したもので、彼の1737年の「中国の地図帳」に発表されたほとんど同一の2枚のタタール地図は、この地図の見本である。
西方の地図は中央アジアと中国北部地方およびモンゴルを図示している。東方の地図は、朝鮮、日本および現在の満州である。
この地図の最も注目すべき特徴は、サハリンの奇妙な形で、ここでは2つに分かれ、北の島は南カムチャッカに似ており、南部の地区は、なお北海道と混同していて、2つの島は一つである可能性がある旨注意書きがある。地図は、1643年のデ・フリースのサハリン調査に触れている。
興味深いまた詳細な大判のドイツ地図である。
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No.88-2 ホーマン, H
(
HOMANN Heirs
)
「
タタール中国地理学地図(タイトルは地図の上に横にフランス語でも表記、タタール中国および朝鮮・日本地図)
(TATARIAE SINENSIS MAPPA GEOGRAPHICA. (Title also in French across top of map: CARTE DE LA TATARIE CHINOISE /et des ROYAUMES DE COREE ET DE JAPON)
」
39.5×50(2)(cm)
1749
【解説】:
このタタール中国、朝鮮、および日本の精巧な2枚からなる地図は、H・ホーマン社の協力を得て、ドイツ人T・マイヤーによって作成され、1749年以降、ドイツニュールンベルクで、当時の2折判の多くの地図帳に発表された。
地図のタイトルは、その情報源を特にイエズス会の修道士達の報告書に依拠していることを示しているが、それは1698-99年に「タタールへの航海」を書いた、ジャルビヨン???だけでなく、またダンヴィルにも依拠したもので、彼の1737年の「中国の地図帳」に発表されたほとんど同一の2枚のタタール地図は、この地図の見本である。
西方の地図は中央アジアと中国北部地方およびモンゴルを図示している。東方の地図は、朝鮮、日本および現在の満州である。
この地図の最も注目すべき特徴は、サハリンの奇妙な形で、ここでは2つに分かれ、北の島は南カムチャッカに似ており、南部の地区は、なお北海道と混同していて、2つの島は一つである可能性がある旨注意書きがある。地図は、1643年のデ・フリースのサハリン調査に触れている。
興味深いまた詳細な大判のドイツ地図である。
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No.89 ドゥ=ヴォゴンディ, R
(
DE VAUGONDY, Robert
)
「
日本
(LE JAPON)
」
16×16(cm)
1749
【解説】:
1749年パリのヴォゴンディの「ポケット地図帳」に発表された珍しいミニアチュアである。
ベランを見本とした重要な小地図で、大きくうずくまった形の歪んだ本州を図示しているが、また、たとえ100年前のデ・フリースの発見に主として基づいた見本とはいえ、北海道が描写された18世紀の数少ない地図の一つである。
このヴォゴンディの地図には、 2つの異なった描写の北海道の2つの異なる版がある。この地図はヤンソンの1652年の見本とし、江戸が北方に伸びたより広範囲の海図で、サハリンも含んでいる。スターテン島および会社の士地の西の先は図示されている。別の地図は江戸がさらに切りつめられた輪郭で図示されている。
重要で珍しいミニアチュアで、日本の北はデ・フリースに従って混乱した地理作製が続いている。
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No.90 ドゥ=ヴォゴンディ, R
(
DE VAUGONDY, Robert
)
「
日本帝国。地図製作はロベール氏。特典を授与された。
(L'EMPIRE DU JAPON... PAR LE Sr ROBERT... Avec Privilege.)
」
53.5×48(cm)
1750
【解説】:
1750年パリで刊行されたヴォゴンディの「世界地図帳」に発表された、これより前のカエムファー(1727年)およびベラン(1735年)を見本とした大判の装飾的なフランスの日本地図である。
ドゥ・ヴォゴンディ(1686-1766年)およびその息子ジル(1723-1786年)は18世紀中頃の最も精巧な地図帳を協力して作成した。1757年以降父子は「世界地図帳」の版の制作に力を合わせた。
おそらくこの地図の最大の注目すべき特徴は、津軽海峡のある日本の北の岬と、青森湾がそれまでのヨーロッパの地図のどれよりもさらに正確に描かれていることである。しかし、彼等の先駆者と同じく全体の輪郭はまだずんぐりして短縮されており、朝鮮はかなり誇張されている。
地図の装飾は、精巧な大きな中央の花形枠にあり、植物、孔雀およびパラソルの東洋風の浮き彫りを特徴としている。東洋のイメージはパゴダと寺院の2つの飾り装飾で完璧である。
この地図のその後の版は、1792年以降はC・デラマルシェにより出版され、1750年の日付が楕円形の花枠から消されて現れる。
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No.91 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
日本諸島および朝鮮半島地図
(KARTE von den EYLANDEN VON JAPON und der Halbinsel KOREA...)
」
28.5×21(cm)
1750頃
【解説】:
これはベランの中国、朝鮮、および日本海岸の一般地図で、1746年にパリで出版されたプレヴォの「旅行記集」の2巻に発表されている。
これはドイツ版で、1750年頃にシュヴァーベによってライプチッヒで出版されたものである。
この地図は、ドイツ語文付きで、再彫刻されているが、地図製作上のまた地誌的な詳細は変わっていない。
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No.92 ベラン, J. N
(
BELLIN, Jacques Nicolas
)
「
18世紀の最も人気のある図の一つ「旅行記集」のための日本帝国地図。
(One of the most popular 18th Century outlines
CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON Pour servir a
L'Histoire Generale des Voyages.)
」
31.5×21.5(cm)
1752
【解説】:
この日本の詳細地図は、ベランの1735-6年の初期の地図を見本としており、プレヴォの「旅行記集」に出ているが、この書は、1746年から1789年の間にパリで出版された網羅的な20巻本で、この中にベランの精緻な銅版地図を組み入れている。
この地図は日本とその都市を描いた作品の6枚のうちの1枚で、4折判版の10巻に出ている。
この地図は、緯度と経度の格子模様の上に描かれ、左上に、魅力的なロココ様式の表題がある。地図の情報源は、ベランがシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に添えるために発表した1735年の地図から取られている。
興味深いまた人気のあった地図で、18世紀の後半に多数のヨーロッパ諸国語で再版された。
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