No.28
ホンディウス, J ― ヤンソン, J ( HONDIUS, J. - JANSSON, Jan ) 

「 デ・フリースの実地調査を示す最初の印刷地図「日本および蝦夷図」 (The first printed map to show De Vries'surveys IAPONIA et TERRA ESO) 」 
19×15(cm) 1651
【解説】: 非常に重要でまた見過ごされてきた地図で、この小さなミニアチュアは、1651年アムステルダム版ヤンソンの編集になるドイツ語版メルカトル「小地図帳」で、わずか7年前のデ・フリースの探検での発見を示す最初の地図である。これはヤンソンのもっとも有名で、1652年頃最初に出版された大判2折判海図以前のものである。 この地図は、中国、三角形の島として図示された朝鮮、日本の3つの主な島は精巧なテイセラの輪郭に基づき、北方のデ・フリースの発見は、大きなエゾが北海道およびサハリン、スターテン島の千島諸島と会社の島を一緒にまとめて、その東海岸は空白で未完成である。 非常に珍しく重要で希少なミニアチュアで、この地図は1651年のこの版にのみしか出ていない。

No.29
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島の図示 (DESCRIPTION DES ISLES DU JAPON...) 」 
27×18(cm) 1652
【解説】: 1652年出版の小型4折判の地図帳「アジア地図帳」はサンソンによって出版された希少な日本地図の非常に立派な見本であるが、パストローは、この地図を地図帳の1658年版ではサンソン、1652年の別の小地図を入れ替えて、この地図として記録している。 マリエットおよびサンソンによって出版されたブリエ作成の大判2折判の1650年の地図と同じく、地誌的また地図製作上の情報は1646年の珍しいカルディムの地図から、また記述は1649年に最初に出たオランダの地理学者ヴァレニウスの影響を及ぼした小型のエルツエヴィル出版の「日本国図」から引用された。 この地図は、日本のいりくんだ海岸線を繰返し図示し、また琵琶糊は、瀬戸内海から伸びて誇張された形で大きく描かれている。 地図は7地方に分けられ、下の中央に渦巻模様の楕円形の枠をともない、右にはたれ幕のついたマイル縮尺がある。 希少で、また珍しいカルディムの変形地図。

No.30
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島 (LES ISLES DU IAPON) 」 
24×18.5(cm) 1652
【解説】: サンソンによるこの興味ある地図は、フランスの地図製作者による最初の小型4折判地図帳であり、その1652年に出版の地図帳「アジア地図帳」に発表されたものである。この地図はピローニンによって彫られたもので、彼の刻印が左下に見える。 これは日本の非常にいりくんだ海岸線のある1646年のカルディムの地図を踏襲したサンソンの1650年および1652年(著作権)の以前の地図と、その輪郭が非常に異なっている。興味深いのは、諸島の形はヤンソンの影響のある1652年と59年の海図に非常に忠実なことである。後の1683年の地図と同じように、奇妙で並外れた三角形の島としての朝鮮を借用しているが、もっと正確な北海道の輪郭は組み込んでいない。日本の北にある陸地は「イエッソ、イェゾ、またはセッソ島または陸地」と呼ばれ、朝鮮島の北から本州北部へ広がっている。 この地図は、後の版の地図帳ではカルディムを踏襲した別のものと入れ替えられているが、地図帳の1683年版のための、デウィンターが彫った新しい地図の見本であった。

No.31
ヤンソン, J ( JANSSON, Jan ) 

「 千島諸島および「会社の土地」-混乱した考え 日本国エゾ新詳細(図) (Kuriles and "Company's Land"-A confused picture NOVA ET ACCURATA IAPONIAE TERRAE ESONIS...) 」 
55×45.5(cm) 1652頃
【解説】: 17世紀の西洋の歴史上重要な日本地図で、初めてイェゾ(北海道)南部および北方諸島の海岸線のいくつかの実地調査が行われたが、その中の情報の一つを提供するものである。この地図は初めて1652年、ヤンソンの「大地図帳」の海図部第5巻に出た。 地図は、1643年にバタヴィアから重要なオランダの探検を指揮し、またヨーロッパ人で初めてこの地域の水域を海図にした一人に数えられるデ・フリースの海図から引用されている。この探検は、全ての外国人に対して鎖国政策を取っていた日本には上陸しなかったが、その北に進路を取り、日本北部および北海道の沿岸水域の詳細な水深測量を行った。探検隊は後にサハリンの南海岸を探検し、この地図は、北海道とサハリンが繋がっており、またアジア大陸に繋がっているという信念を強める結果となった。日本の輪郭はマルティーニの1655年の地図より以前のものであるが、しかし奇妙な朝鮮島を描いている。千島諸島の最南端は、オランダのオランダ国会にちなんで「スターテン島」と呼ばれ、イルップについては、デ・フリースは悪天候のもとでしか観察できなかったので、オランダ東インド会社VOCに敬意を表して「会社の土地」と呼ばれた。その東の果ては不明確で、将来に多くの推測を残す元となった。 キャンベルはこの地図の作成日を1659年と鑑定したが、コーマンは1652年の版を示している。

No.32
マルティーニ, M ― ブラウ, J ( MARTINI, Martino - BLAEU, J. ) 

「 17世紀の最も正確な地図の一つ「日本国」 (One of the most accurate maps of the 17th Century IAPONIA REGNUM) 」 
57×41.5(cm) 1655
【解説】: 17世紀の最も影響力を及ぼしまた重要な日本地図の一つであり、この地図は中国の杭州のイエズス会修道院長であったイタリア人マルティーニ(1614-1661年)が編集したものである。マルティーニの地図はJ・ブラウの注目する所となり、日本、中国および中国各省の17枚全ての地図を彼の「地球の舞台あるいは新地図帳」の第六巻「中国地図帳」に組み入れたのである。そして、これは中国に関する最初のヨーロッパ地図帳であった。 この地図は、それまでの全ての描写よりもかなりの向上が見られ、「19世紀以前の印刷された地図のどれよりも、日本の真の形に近い輪郭」(キャンベル)である。 3つの主な島は、朝鮮半島と共に図示され、その半島の南の海岸線はかなりぎざぎざに描かれた。えぞ地(北海道)は地図の極端に上の端に見え、その大きさや本州との関係には何らの記述もない。マルティーニは全ての大きな町や都市を示している。 彫りは精緻また優美で、この地図は1672年までに刊行されたブラウの地図帳に出ており、またP・モルティエの刻印と共に記録されているが、モルティエはこのブラウの判のいくつかを1690年代に入手した。 非常に重要でまた影響を及ぼした地図である。

No.33
デュヴァル, P ( DU VAL, Pierre ) 

「 日本諸島 (ISLES DU JAPON) 」 
12×10(cm) 1661
【解説】: デュヴァル(1618-83年)はサンソンの甥で、1661年パリで出版された彼のミニアチュア地図帳「世界地理」のために、この非常に稀少な日本のミニアチュア地図を作成した。この地図帳の版は、1670、1672、1676、1677、1682、1688、1712年と版を重ねており、この小型ポケット地図帳の人気を示すものである。 この地図のフランス語のタイトルを替えた、2つの別版のラテン語タイトルで出ている。 地図そのものは、叔父のサンソンとブリエの、誇張されたぎざぎざの海岸線と7つの地方に分けた輪郭を踏襲している。 タイトルは左上に小さな花綱の枠に囲まれている。

No.37
グース, P ( GOOS, Pieter ) 

「 日本からノヴァヤゼムリャ島に至るアジアの北東沿岸 (Noordoost Cust van ASIA van JAPAN tot NOVA ZEMLA) 」 
54×44(cm) 1666
【解説】: グースの卓越したアジアの北東海岸の海図は、1666年アムステルダムで彼の有名な「海図帳」に発表された。 地図の最も注目すべき特徴は、本州の北へ様々な島を詳細に描写したことで、1643年のデ・フリースの航海中に作成された重要な海図についで、この地域の印刷された描写の中では最初のものとなる。 デ・フリースはこれらの諸島について詳細な情報を提供した最初の西洋人であるが、またその地図製作上の誤りは、その後1世紀半に及んで大きな混乱を起こす原因となった。デ・フリースは北海道の南部の海岸を地図に描くことができたが、首尾よく南千島諸島に到達して、エトロフをスターテン島と呼んで海図を作った。しかしウルップの海岸を大きな新しい広大な土地の始まりと解釈して、それをオランダ東インド会社VOCに敬意を表して、会社の土地と呼んだ。 デ・フリースの探検目標の一つは、マルコ・ポーロのキャセイの存在を検証するためで、当時なお今日の満州の海岸に存在すると信じられていて、この地図に、グースが図示したものである。 ローン、デ・ウィットおよびコイレンによる類似の海図と同じように、オランダ人はノヴァヤゼムリャ経由で、北極ヨーロッパから日本ヘの北東航路が開ける可能性を、この地図に図示されているように信じ続けていた。

No.38
ブローム, R ( BLOME, Richard ) 

「 中華帝国...隣接日本諸島...の新地図 (A New map of Empire of CHINA... the adjacent Isles of Niphon...) 」 
38×34(cm) 1669
【解説】: この珍しく馴染みの少ないイギリス地図はブロームによってロンドンで出版されたが、おそらく彫りは有名なW・ホラーが1670年の彼の地図帳「世界の記述」のために彫ったものであろう。 ブローム(1660-1705年誤記)は、伝えられる所によれば他の地図製作者の剰窃、その最たるものが「スピーズ地図の要約」で、J・スピーズの郡地図帳を複写したことで、地図製作者の間では不当に評判が悪かった。しかしこの点に関しては、そのやましさは同時代の同業者としては人並みの行為である。 この地図は中国、朝觧および北海道の南端を描いた日本を図示している。地図の輪郭は特に日本については、非常にいりくんだ海岸線で、また瀬戸内海は琵琶湖まで伸びて、サンソンから直接に取っている。 右下の魅力的な標題は、盾形の紋章でかこまれて、ケント州ノルトンのT・ペイトン卿閣下に献呈されている。この装飾様式は17世紀のイギリスで地図製作の企画の資金集めの手段として普及していて、またブロームの多くの地図帳には、かつてのスポンサーや後援者が交替すると、いれ換えの献辞が糊付けされているのが見えるが、これはそれほど珍しいことではない。 魅力的で非常に珍しいイギリスの地図である。

No.39
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島の地図... (CARTE DES ISLES DU IAPON...) 」 
31×21(cm) 1679
【解説】: この風変わりな地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の小型4折判に現われた。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、現地を訪れたことがなく他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入の多い輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸へ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。 風変わりで珍しい地図である。

No.40
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本で最も美しい女性を突き止め紹介している 1679年 日本諸島の地図... (The most beautiful women in Japan located: 1679 CARTE DES ISLES DU IAPON...) 」 
76.5×51.5(cm) 1679
【解説】: この珍しい大判の地図は、初めて1679年にパリで出版されたタヴェルニエの「旅行記集」の2折判に出た。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行家として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)について記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸参府の際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な土地と特徴の詳細な注釈があり、岡崎の街のどこで日本一の美人が捜し出せるかという話もある。 この地図の縮小判はラテン語、ドイツ語、英語文で彼の後の作品の出版物の中に見出される。

No.41
モルデン, R ( MORDEN, Robert ) 

「「日本および蝦夷地方の最新図」 (JAPONAE ac TERRAE IESSONIS Novissima Descriptio Robt Morden) 」 
12.5×10.5(cm) 1680
【解説】: 風変わりな英語版のミニアチュア地図は、初めて1680年にロンドンで出されたモルデンの魅力的なミニアチュア地図帳「修正版地理」に発表された。 モルデン(1703年死去)は、その精緻なミニアチュアのイギリス郡地図のトランプや1695年以降W・カムデンの「ブリタニア」版に納められたイギリスの郡の小型2折判地図の精巧なシリーズ物で最も良く知られている。 1655年のブラウ-マルティーニ地図を見本として、モルデンは、朝鮮半島から北へ湾曲した海岸線を持つ蝦夷地が、東アジア半島であることを図示した多くの17世紀の地図製作者の一人である。彼は、スターテン島(イツルップ)のある千島諸島のデ・フリースの輪郭に固執し、またデ・フリースの海峡をしるしている。 本州の7地方の区分が、右下の文字記号で示されている。タイトルは上中央に、魅力ある渦巻きの飾り枠の中に出ている。 魅力的で珍しい17世紀後期の英語版ミニアチュアである。

No.42
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島地図(挿入図) トンキン地図 (A MAP OF THE ISLES OF IAPON (inset) MAP OF TUNQUIN) 」 
52×36(cm) 1679
【解説】: タヴェルニエの英語版に現われたこの珍しい地図は、初めて1680年にロンドンで、E・エヴェラルおよびM・ピットによって、「J・B・タヴェルニエの物語集」と題して出版された。 地図製作上また地理的詳細は、ほとんどの点でフランス地図と同一であるが、ここに、ピットは2枚の日本とトンキンの地図を、トンキンを地図の左上に挿入図として融合させている。ピットはまたこの地図の他の版に出ている注釈を省略している。 珍しく風変わりな英語版は、タヴェルニエの著作が広く人気があったことを示している。

No.43
デ=ウィット, F ( DE WIT, Frederick ) 

「「...日本、中国図」 (MAGNAE TARTARIAE... IAPONIAE et CHINAE Nova Descriptio) 」 
55.5×44(cm) 1680頃
【解説】: デ・ウィットのタタール地域および東アジアの精巧な銅板の地図は、北シベリアから朝鮮、中国および日本ヘと広がっている。 特に北海道(えぞ)の興味深い記述で注目に値する。1643年のデ・フリースの見本にしたがって東沿岸のみが図示されていて、スターテン島の千島諸島および会社の土地が含まれている。日本そのものはサンソン、ブリエ、カルディムに依る初期フランス地図を思い起こさせる多くの湾入のある輪郭で図示されている。 天使の子どもに支えられた装飾的な垂れ幕のタイトル渦巻きは、右上に見える。 この地図は、1670年ころから1715年間にアムステルダムで出版された多数のデ・ウィット地図帳に見られ、またその後コヴェンスおよびモルティエによって、またC・ブラウンによってロンドンで発行された地図帳に見られる。この地図の多くは、いずれの場合も、表題の文字が異なって、わずかずつ異なった状態で見出される。 この版は、デ・ウィットのアムステルダム、カルヴェル通りの刻印が右下にある。 デ・フリースの重要な発見を永久に伝えるものとして、また北東航路の可能性に対しての信頼を与え続けた東アジアの重要な地図である。

No.44
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「「7地方と66地域に分けられた日本島」 (INSULARUM IAPONIAE in VII Partes & LXVI Regna Antiqua divisae Per N Sanson) 」 
26.5×18(cm) 1680頃
【解説】: この珍しい日本地図は、様式としては1650年のブリエの地図や1652年のサンソンのほぼ同じサイズの地図に非常に類似していて、ほとんどの標準となる参照作品はこの地図の地図帳の出典を記していないが、サンソンの小型4折判地図帳の17世紀末の版から取られているように見える。キャンベルは1705年頃のものとしているが、これではあまりに時期が後ではないかと思われる。 地図そのものは、精巧に彫られ、朝鮮の東海岸、3つの主な島、および北海道の最南端を図示している。66の地域と7地方が定められている。表題は左上に垂れ幕の飾り枠の中に見える。ドイツ、日本フランス、ポルトガルの縮尺が右下に見える。 珍しいカルディムを下敷きにした変形版で、1646年見本をサンソンが使用した最後のものとなる。

No.45
デ=ウィット, F ( DE WIT, Frederick ) 

「 東インド諸島および周辺諸島図 (Orientaliora INDIARUM ORIENTALIUM cum insulis adjacentibus a Promontorio C. Comorin ad Iapan... (Title also in Dutch)) 」 
54×44(cm) 1680頃
【解説】: この東インド諸島の精巧な海図は17世紀後半のオランダ海図地図帳に多数の類似した海図が制作されたもののひとつで、オランダ東インド会社の影響力と探検の広がりを示すものである。 この地図は、デ・ウィット(1630-1706年)により、アムステルダムで出版されたもので、1675年ころ初めて出版された彼の「航海地図帳」に見られる。 この地図は、インド南部およびセイロンからオーストラリア西部および北部まで、また全ての東インド諸島、北は日本まで及ぶアジア東部の海岸の地域を図示している。地図全体は北がページの左端を基点として記されている。地図は、タスマンの北西オーストラリア沿岸に沿った2回目の航海をはじめとする西および北オーストラリアにおける初期のオランダの発見を組み入れている。日本は、1655年のブラウーマルティーニモデルによって、3つの島しか図示されていない。 海図は4艘のガリオン船の挿絵、また左下の華麗な装飾的な表題枠の装飾は、扇子を持つ貴婦人、鳥かごの唄う鳥から、阿片を吸う召し使いや東洋の商人や上級官僚までの全ての画像を組み込んでいる。 装飾的な17世紀オランダ海図。

No.46
コイレン, J ( VAN KEULEN, Johannes ) 

「 (Pascaarte vande Noord Oost cust van ASIA) 」 
60×52(cm) 1681
【解説】: 1681年コイレンの「海図地図帳」に初めて発表された北東アジアの精巧な一般地図で、ノヴァヤゼムリャから日本と朝鮮に至る海岸を図示したものである。日本は1655年のマルティーニ輪郭に基づいており、湾入のある朝鮮やアジア大陸に繋がった珍しい蝦夷半島とともに図示されている。1643年のデ・フリースの海図に従って、スターテン島とそれより大きな会社の士地は、本州と北海道の北東に図示されている。 大ハーンが部下の戦士に囲まれた正装の座像と共に、素晴らしい装飾表題花枠は左下にある。 北極圏およびこれまで通過不可能であったノヴァヤゼムリャ経由でインド諸島ヘの北東航路の可能性の信頼を引き続き示している点で興味ある海図である。

No.47
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島図、長崎から宮廷のある江戸まで (Delineatio Insularum Japonicarum in quibus designatur via terra marique quam sequentur Batavi ab urbe Nangasaqui ad urbem Jedo sedem Regiam...) 」 
31.5×21.5(cm) 1681
【解説】: この希少なラテン語文のタヴェルニエの日本地図は、1679年にパリ初版のタヴェルニエの「旅行記集」の、珍しい1681年ドイツ語のジュネーヴ版に見られるものである。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行者として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがないため、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿って様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。

No.48
タヴェルニエ, J. B ( TAVERNIER, Jean Baptiste ) 

「 日本諸島の海図 (CHARTE DER IAPONISCHEN INSELN...) 」 
31×21(cm) 1681
【解説】: この風変わりな地図は、1681年にドイツのニュルンベルクで出版されたタヴェルニエ「旅行記集」ドイツ語版の小型2折判に現われた。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、有名な旅行者であった。彼の記述には、中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石販売に従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがなかったので、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分より精巧にできてはいるが、カルディムとブリエのでこぼこのある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿ってタヴェルニエの様々な士地と特徴の詳細な注釈がある。 多数の標準的文献や地図製作の参照文献にも記録されていない、この地図の珍しいドイツ語版である。

No.49
マレ, A. M ( MALLET, Alain Manesson ) 

「 日本諸島 (ISLES DU JAPON) 」 
10×14(cm) 1683
【解説】: マレの「世界誌」に出てくる精巧なフランスのミニアチュア地図で、これは地図と世界中全ての地方の版画を合体させた珍しいミニアチュアの世界地図帳である。この地図帳は最初に1683年にパリで出たが、その後ドイツ語版が引き続き出された。 地図そのものはマルティーニとサンソンの輪郭を踏襲しているが、諸島の形は多少以前のものより丸みを帯びている。地図は3つの主な島と「蝦夷地」の南端を図示している。主要な町と都市は、地域の区切りなしに描かれている。魅力的な表題は二人のトランペットを吹く天使の子どもによって支えられた引き幕様式の旗の形として、中央下に見える。

No.50
サンソン, N ( SANSON, Nicolas ) 

「 日本諸島 (LES ISLES DU JAPON) 」 
24×18.5(cm) 1683
【解説】: サンソン作品の後期の見本で、初版は1683年にパリで「新詳細アジア地図」と題したサンソンの小型4折判地図帳に出版された。 この地図は、はなはだしくいりくんだ海岸線のカルディムの1646年の日本地図を厳密に踏襲したサンソンの1650、1652年の地図とは、輪郭が非常に異なっている。 この地図は、A・デウィンターによって新たに彫られたがヤンソン、1652/59年の影響力のある地図の輪郭を踏襲している。明らかに島として図示された珍妙で珍しい三角形の朝鮮を借用しているが、しかし興味深いことに、北海道の輪郭は組み込んでいない。本州の北の陸地は「イエッソ、イェゾ、またはセッショ島または陸地」とされて、朝鮮から松花江の海峡まで広がっている。 この地図のオランダ語版は1683年にも出版されており、さらにハルマの1700年の地図帳に至るまで版を重ねている。この地図はまたクロッペンバークのメルカトール-ホンディウス複合版「小型地図帳」のH・デュ・ソーゼットの最終版のなかに変更無しに出ている。この地図帳は、17世紀になお利用可能な地図帳の小型の図版とサンソンのより最新の地図を組み合わせたものである。「携帯地図帳」と題したこの地図帳は1734-38年に出版された。