No.133
トムソン, J ( THOMSON, John ) 

「 朝鮮と日本 (COREA AND JAPAN) 」 
63×50(cm) (1814)1820
【解説】: 魅力的な19世紀初めの日本と朝鮮の地図で、1814年以降エディンバラで出版されたトムソンの「新一般地図帳」の中に発表された。 1809年のピンカートンの地図に、様式と詳細は似ているが、しかし諸島の全体の輪郭は、特に東北がよい。朝鮮はなお大きすぎてまた強調され過ぎている。 これは、ホールの1816年の「朝鮮の西海岸ヘの航海」からの手短な描写が左下の隅にありそれに朝鮮の西海岸にいくつかの島が追加された同じ版の第2版の地図である。この第2の方の版は後にG・フィリップによって、彼の1851年の地図に複写された。

No.134
カークウッド, R ( KIRKWOOD, Robert ) 

「 日本 (JAPAN.) 」 
35×28(cm) 1817
【解説】: この魅力的な銅版日本地図は、1817年エディンバラで出版されたカークウッドの「一般地図帳」のために、カークウッドが彫り出版したものである。 カークウッドは1815年のセントヘレナの地図と1817年の2枚の詳細なエディンバラ地図で知られている。彼は1818年この地図帳の刊行後、まもなく死亡した。 この「一般地図帳」は世界の全ての地域の44枚の地図を所載し、この日本の魅力的な地図は、多くを18世紀のダンヴィルとル・ルージュの地図から引用している。朝鮮の東部の海岸と日本の3つの主な島が描かれている。カークウッドはダンヴィルとル・ルージュが初めて提起した本州の北東の曲線を継承している。地方の区分と各地方の主な都市は図示されている。 興味深いまた希な地図で、18世紀フランスの地図製作の時代遅れの情報源の影響が続いていることを示している。

No.136
ビュアーシュ, J. N ( BUACHE, Jean Nicolas ) 

「 日本 (JAPON) 」 
25×20(cm) 1820頃
【解説】: 単純で明瞭に彫られた日本の3つの主な島のフランス地図は、よく知られたフランスの地図作成者P・ビュアーシュの甥にあたるJ・N・ビュアーシュによって、1820年頃、パリで出版された。 装飾のない単純な円形の花枠は中央上にあり、一方全ての主要都市および地方は明瞭に標されている。諸島の輪郭は、ダンヴィル1737年のタタール地図および1752年のアジア地図、さらにル・ルージュの1748年の日本地図から多くを取り入れている。 この地図のイタリア版は、ミラノのF・ボルディガにより彫られ、1820年ミラノでロッシにより出版された。 19世紀の珍しい銅版である。

No.137
ブリュ, A. H ( BRUE, Adrien Hubert ) 

「 中国帝国および日本の一般地図 (CARGE GENERALE de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...) 」 
51×36(cm) 1821
【解説】: この精巧に彫られた詳細な中国および日本地図は、1821年パリで、ブリュ(1786-1832年)によって出版された。1816年初版の彼の「世界地図帳」に出ているが、しかし、この地図は1821年の日付がある。 この時代のフランス地図と同じように、北部インドとチベットから中国のモンゴル地方の北部区域までと満州まで広がっている。アジアの東海岸は海南島から日本、北海道、南千島諸島およびサハリンまで図示されている。サハリンは中国領土の一部として、また千島諸島は日本の領土の一部として示されている。 この地図はまた、全てのブリュの地図を本物と証明し、この時期パリで問題であった薯作権侵害を防止するため、ブリュの特別のスタンプが押されていることでも興味深い。

No.138
タルデュー, A ( TARDIEU, Ambrose ) 

「 中国および日本地図 (CARTE DE LA CHINE ET DU JAPON) 」 
56×41(cm) 1821
【解説】: 中国と日本の魅力的な2折判の銅版地図は、1821年のL・アルプの「旅行記集」のために、タルデューによって出版された。 地図は、中国全土および朝鮮、日本の3つの主な島を図示している。北海道は蝦夷島としてその南端のみが記されている。3つの島の輪郭は、特に本州北部の形と方位が顕著であるが、いっそう正確になった。 魅力的な渦巻き模様の表題が右下にあり、その下にフランスマイルと海里の縮尺がある。

No.139
アロウスミス, S ( ARROWSMITH, Samuel ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
29.5×23(cm) 1823
【解説】: アロウスミスによって1823年ロンドンで出版された精巧に彫られた地図である。製作者サミュエルは、18世紀末および19世紀初頭に最も影響力のあるイギリスの地図製作一家に数え上げられた創設者A・アロウスミスの息子である。父アアロンは1798年に刊行された9枚からなる太平洋の地図の極東地図作成で最も良く知られている。 この小型の4折判地図は、この時代に、サミュエルとその兄弟アアロン・ジュニアによって出版された多くのアロウスミス地図帳の一つに出ている。 日本は、ピンカートンおよびトムソンによって使用された1809年と1814年の輪郭を見本としており、本州の輪郭が幾分改良され、まだ東北が強調され過ぎてはいるが、湾曲した北東の弧を描き前よりは正確に図示されている。 1820年代の魅力的なイギリスの鋼版彫りの地図である。

No.140
アロウスミス, A ― タナー, H. S ( ARROWSMITH, A. - TANNER, H.S ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
40×24(cm) 1825頃
【解説】: 魅力的な19世紀初期の地図はタナーによって彫られたもので、これは1807年のA・アロウスミスの地図の再発行で、タナーが彫工であるとのインプリントのみがある。フィラデルフィアのH・S・タナーは、いくつかの精巧なアメリカ州地図帳で良く知られているが、特にその1813-23年の「新アメリカ地図帳」は有名である。 日本は18世紀末に向上した1790年のセイヤーの地図の輪郭を踏襲しているが、なおかなり本州は短縮されて、特に北の地域が歪んだ輪郭である。国は地域ごとに区分され本州は5つの地方に分かれている。朝鮮はかなり強調されて描かれている。

No.141
ペロー, A. M ( PERROT, Aristide Michel ) 

「 日本帝国 (EMPRE DU JAPON) 」 
16×16(cm) 1826
【解説】: この奇妙な小ミニアチュア地図はペロー(1793-1879年)によってパリで出版された。ペローは1823年、イギリス諸島の地図帳のシリーズものと1825年のフランス県の地図帳で最も良く知られている。 この地図は一般地理学または特定のテーマの地図帳から引用されたようで、内陸の詳細は主な山脈が青と赤で強調されて示されるだけに限られて、個々の地域は番号が付けてあるがその記号表はない。左上の挿入画は沖縄および中央琉球諸島を図示しているが、これもまた詳細はない。 非常に奇妙で珍しい地図である。

No.143
アシェトン, J ― テグ, T ( ASSHETON, John - TEGG, Thomas ) 

「 日本 (JAPAN.) 」 
25.5×20(cm) 1829
【解説】: この日本の魅力的な小鋼版彫り地図は1829年ロンドンでテグによって出版された。J・T・アシャートンが作図し、J・シャーリーによって彫られた。シャーリーは同じ頃から始まったSDUK地図帳シリーズの彫工としてよく知られている。 この地図は、1814年のJ・トムソンの日本の3つの主な島の全てに朝鮮の東海岸の一部が描かれた地図を忠実に複写している。 表題は中央上に装飾的な四角形のなかに見える。

No.144
作者不明 ( Anonymous ) 

「 日本 (GIAPPONE) 」 
7×10(cm) 1830頃
【解説】: 好奇心をそそる日本諸島の小地図は、おそらくイタリアの地理教育の地図として、または19世紀初め特に人気のあったトランプのカード地図として出版されたのであろう。 日本の3つの主な島が、正しい輪郭でまた北海道およびサハリン半島は形よく描かれている。奇妙なのは、北海道の北東に1643年デ・フリースによってスターテン島および会社の士地と名づけられた2つの広大な士地が、ここでは千島諸島南端の2つの島に名づけられて、なおそれが信じられていることである。地図の下側にそって、2、3の興味ある注釈があり、国の人口、農業、政治機構を述べている。 興味深いまた非常に珍しい地図である。

No.145
ダウアー, J ― ティースデル, H ( DOWER, John - TEESDALE, Henry ) 

「 中国と日本 (CHINA AND JAPAN) 」 
41×33.5(cm) 1831
【解説】: この魅力的な中国と日本の地図は、1831年ロンドンで、ティースデルによって出版された「一般地図帳」のため、ダウアーが図形を描き彫った。 多作の彫工であったダウアーは、 19世紀半ばの重要なイギリス地図帳のほとんどの作品を手がけたが、とりわけ、T・モウルやグリーンウッド兄弟のイギリス郡地図帳で有名である。ティースデルの会社は1830年代に最盛期にあり、3つの主要な地図帳「新イギリス地図帳」「新旅行地図帳」そしてこの「一般地図帳」を出版した。 地図は中国全士およびそのチベットからモンゴルまでの進貢諸国、中国満州および朝鮮を図示している。日本は、サハリンと北海道と共に描かれ、サハリンは中国領士の一部として図示されている。 1830年代の魅力的なイギリス地図である。

No.146
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本およびその周辺諸島および保護領 (JAPAN MIT SEINEN NEBEN UND SCHUTZLANDERN...) 」 
34.5×22.5(cm) 1832
【解説】: この朝鮮、日本、北海道および千島諸島は、1832年に出版されたシーボルトの1823年から1830年までの彼の日本航海および日本滞在の記述のドイツ語版初版にPlate Ⅰ(図Ⅰ) として出てくる。 この地図はシーボルトが表題に説明しているように日本の木版地図「日本???」から取られたものである。表題は日本語で、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細、および1808年に発見された間宮海峡を描いている。 シーボルトは1823年に日本に赴任して、民族誌学、博物誌および地図製作の作品の系統的な収集を始め、日本についての広範な詳細な研究の基礎を築とうとした。しかし、 1829年、滞在の終わりを迎えて、外国人には法律上禁止されていた伊能忠敬、間宮林蔵、最上徳内の地図を入手して所有していることで、スパイ活動の容疑で逮捕され、1830年日本を追放処分された。 シーボルトの本は、1832年に刊行が開始され、一部は1858年に刊行されたが、彼の生前には完了せず、現在もなお完了していないが、19世紀の日本研究の最も重要な一つであり続けている。

No.147
アンドリヴォ ― グーヨン, J ( ANDRIVEAU - GOUJON, J. ) 

「 中国帝国および日本地図 (Carte de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...) 」 
50×38.5(cm) 1834
【解説】: この精巧に彫られた中国および日本の詳細地図は、1834年、パリで、出版業者兼地図販売業者のアンドリヴォーグーヨンの「世界地図帳」に発表された。 アンドリヴォーグーヨンの会社は、G・アンドリヴォ(1805- 1880年)とM・グーヨンの娘との結婚によって始められ、パリのルーエデュバックに設立以来19世紀の終わりまで続いた。 地図は、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。日本は地図の右端に、北海道と千島諸島の南端と共に描かれている。サハリンは中国と日本領に分けられて描かれている。 この時代のこの極東地域を図示した多数のフランス地図の1枚である。

No.149
ウト, J. J. N ( HUOT, J. J. N. ) 

「 中国帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
30×22(cm) 1835
【解説】: この中華帝国と日本の小地図は、パリの彫工ティエリーによって、ウトによるC・マルテ-ブランの「世界地理」の改定版のために彫られた。1835年の日付がある。 地図は、この時代の多数のフランス地図と共通で、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。 日本は北海道と共に正確な輪郭で描かれていて、千島諸島の南端とサハリンも描かれている。千島諸島はロシア領土に属すことを示す色分けで、一方サハリンは中国と日本に分けられている。日本群島のどの部分にも内陸の詳細は全く示されていない。

No.150
ペロー, A. M ( PERROT, Aristide Michel ) 

「 日本 (JAPON) 」 
14.5×19(cm) 1837
【解説】: フランスの地理製作者ペロー(1793-1879年)は、1820年代および1830年代のイギリスおよびフランスのミニアチュア地図帳でよく知られている。 この小さな日本地図は、最も単純なデザインで、P・タルデューが彫ったものである。タルデューは18世紀末および19世紀はじめの有名なフランスの地図製作および彫工の一家に数えられる。 地図は、日本と中国の沿岸を描き、北海道、千島諸島および南サハリンは日本の領土として色付けされている。 19世紀初めの珍しいフランスの地図。

No.153
ラピーと息子 ( LAPIE, Alexandre et fils ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、ラピー父子によって制作された。父子ともにフランスの「Etat Major」の将校でまたそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者でもあった。 P・タルデューが彫ったこの地図は、ラピーの1829年から1851年までの「世界地図帳」の様々な版に発表された。この地図は、右下の表題に1842年の日付がある。 地図は、中央アジアとチベットから北部満州、朝鮮および台湾におよぶ中華帝国を図示している。日本は北海道、サハリン、南千島諸島と共に描かれている。南千島とサハリンは日本の領土として示されている。

No.154
ラピー流儀 ( After: LAPIE, Alexandre ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842頃
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、初めてラピー父子によって出版された。父子共にフランスの「Etat Major」将校で、またそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者であった。 この地図は、1829年から1851年までのラビーの「世界地図帳」の様々な版に出ている。 この地図は、1842年ラピー地図と同じ世界地図および2折判の出版事項が刻印されているが、表題の下の部分は完全に消され空白である。 彫工ラルマンは、ラピーの地図に、いつも魅力的な渦巻模様の描写を描いた書写の彫工であった。地図帳の新しい版と共に、下の表題はそっくり彫り直さなければならなかったか、または地図の再発行を簡単にするため空白にされた可能性がある。 その他の全ての点で、この地図はラピーの地図と同じである。

No.155
ペルテス, J ― ベルクハウス, H ( PERTHES, J. - BERGHAUS, H. ) 

「 ダンヴィルとクラップロートにもとづいた中国・日本図 (KARTE VON CHINA UND JAPAN DEN MANEN D'ANVILLE'S UND KLAPROTH'S Genidmet. Potsdam von HB 1843) 」 
97×64(cm) 1843
【解説】: この大判の極東地図は、北部インド、ヒマラヤ、およびバイカル湖から朝鮮、日本、サハリンおよび千島諸島まで広がり、H・ベルクハウスの大判のアジア地図帳に出ており、1832年初めてドイツのゴータで、J・ペルテスによって出版された。 この地図は、その表題の参照にあるように、18世紀のフランス地図製作者ダンヴィルの情報を使用している。ダンヴィルは最新のイエズス会の報告書を基にした影響力のある1737年の中国地図、および1752年のアジア地図を作成した。この地図はまた、東洋についての作家であり旅行者であり学者であったH・J・フォンクラップロートの報告からも引用している。クラップロートは日本の地図製作者の問では、林子平の影響力のある「三国通覧図説」および蝦夷図(北海道)を複写しヨーロッパへ伝え、1832年ロンドンで初めて出版されたことで最もよく知られているだろう。彼はまた1806年にバイカル湖の地図を出版している。 この地図は興味深いテーマ別の色記号で、行政区分地域の境界を異なる色で区別した。北海道とエトロフは日本と図示され、残りの千島諸島はロシア領とされた。 この時代の多数の出版物を出したドイツ出版社の一つによる精緻な石版地図である。

No.156
ロシアン ( LOTHIAN, John ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
35×28(cm) 1844
【解説】: スコットランドの出版業者ロシアンによって、1844年に彼の「人民地図帳」に発表された魅力的な日本諸島の石版地図である。 地図は朝鮮の東海岸から本州の北部までで、北海道は右上の小さな挿入図に描かれている。 18世紀中葉のル・ルージュやダンヴィルのフランス地図を忠実に見本として、本州の輪郭はなお幾分歪められている。各地方は、地方ごとに町や都市と共に区分されている。 18世紀フランスの時代遅れの輪郭を使用した、珍しいスコットランドの石版地図である。

No.157
マルッゾラ ( MARZOLLA, Benedetto ) 

「 日本帝国 (IMPERO DEL GIAPONE) 」 
43×58(cm) 1847
【解説】: ナポリで、マルッゾラの「地理学地図帳」に発表された珍しい日本の大判地図で、イギリスのアロウスミスおよびSDUKの地図を見本としている。 地図は北は南千島諸島まで日本の全ての4島を組み入れている。左上の大きい挿入図は長崎港と港町を描き、一方地図の周囲には日本に関する地理、政治、住民、宗教、商業、農業についての詳細な説明文がある。 興味のある珍しい19世紀中葉のイタリアの日本地図である。

No.158
シャープ, J ( SHARPE, John ) 

「 東南アジア ビルマ-中国-日本 (SOUTH EASTERN ASIA BIRMAH-CHINA-JAPAN) 」 
41×31.5(cm) 1848
【解説】: シャープ(1777年一1860年)は、イギリスの地図製作者で、1847年から 1849年までにロンドンで出版した「通信地図帳」で良く知られている。この精緻な石版地図は、その地図帳からのものであるが、彫工J・W・ローリー(1803-1879年)および出版業者チャップマンとホールが、1848年日付で出版事項に印されている。 地図は北東インドビルマとチベットの東南アジアから中国、朝鮮、日本と北海道およびフィリッピン諸島を図示している。 日本については、主な都市と主たる地理的な特徴以外はほとんど詳細はない。