No.61
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 (無題)日本帝国についての権威ある珍しい記述という文章で始まっている ((Untitled)Text heading: Some Curious Remarks upon the Potent Empire of Japan) 」 
16×14(cm) 1710頃
【解説】: この珍しい表題のない地図は、1704年ロンドンでJ・チャーチルによって初めて出版された初期の航海物語のコレクションのなかの一つに挿入されたものである。この地図は、その出所は明示されていないが、モルの作品のようである。 地図そのものは中国の東および南東海岸、台湾および九州、四国、東は江戸までを含む本州の日本西部を図示している。 地図の上の題はカンディディウスの表示があるが、これはフランスの作家であり司祭であるG・カンディディウスで、台湾については、初めての詳細な記述を提供したもののひとつである。裏面の文は、カンディディウスによる台湾の説明文の一部を掲載している。 カンディディウスの台湾の話は、18世紀初頭、詐欺師プサルマナツァーの台湾話のほとんどはこれが元であった。

No.62
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 日本図。IAPONもしくはNIPHON。地理学者H・モルによる蝦夷地。フリース海峡。 (IAPON or NIPHON. The Land of IESSO and STRAITS of the Vries by Herman Moll Geographer (with) NEW GUINEA, NEW BRITAIN & New Holland & c...) 」 
18×13(cm) (1710)1780
【解説】: モルの魅力的な日本、北海道、デ・フリースの小地図は初めて1712年にその「地理地図帳」に発表された。 日本の面白い輪郭は、本州はかなり短く太く描かれ、「蝦夷地」と呼ばれた奇妙な北海道は、アジア大陸につながっているようにみえる。右上の小さな挿入図は、ラドロン諸島-マリアナ諸島で、南端にグアム島が図示されている。北方に関しては、モルはデ・フリースの輪郭を踏襲し、東には小さなスターテン島(エトロフ)および可能性として広大な会社の土地を配している。 この地図は1対になっており、地図の下方は、不完全なオーストラリアと、1699年に大いに宣伝されたW・ダンピアのニューブリテン島およびソロモン諸島の航海での最新の発見を示している。 この地図は1780年頃の版で、下側の表題の下に、C・ボールズの刻印がある。これは1780年頃の「小地図帳」に発表されたもので、クックが現実にオーストラリア地図を書き換えた後に出版されたのである! 興味深いことに後に発行された魅力的な18世紀初期のイギリス地図である。

No.63
レランド, A ( RELAND, Adrien ) 

「 日本の木版画をレランドが複写したものである 1715年 66の地域区分のある日本 (Adrien Reland's copy of a Japanese woodblock 1715 LE JAPON DIVISE EN SOISSANTE ET SIX PROVINCES. ) 」 
44.5×30.5(cm) 1715
【解説】: この日本の精巧な地図は、表題が示しているように日本の木版画に基づいており、レランドのものとされる2つの類似した様式のひとつである。 レランド(1678-1718年)は、有名なオランダの東洋学者で、おそらくはオランダ東インド会社とのつながりによってこの日本地図を入手したものと思われる。 レランドが著作者であることを記した1715年のより大きな地図と同じように、この地図は西洋の地図に初めて日本の仮名文字の記載を含んでいる。地図の中央下には日本の華族の家紋に囲まれた詳細な長崎港の挿入図がある。 この地図は1715年から1727年にかけてアムステルダムでJFバーナードが出版した8巻本の「北方旅行記集」の3巻に出ている。この本は最近のいくつかの探検の説明で、これはまたデリースルの重要なミシシッピ河の地図を1枚含んでいる。 珍しく重要で非常に影響力を及ぼした地図である。

No.64
レランド, A ― ブリュデレット, G ( RELAND, A. - BRODELET, G. ) 

「 最も装飾的な日本のヨーロッパ地図の1枚である 日本図 (One of the most decorative European maps of Japan IMPERIUM JAPONICUM...) 」 
59.5×46(cm) 1715
【解説】: この日本諸島の素晴らしく装飾的な地図は1715年に有名な東洋学者レランドによって出版された。彼の地図の2つの版は同じ年に出ており、こちらのより装飾的な版が特に人気を博し、1745年頃までフィッセルやオッテンスの地図帳に再発行されてきた。これは1715年、ブリュデレットの刻印で、アムステルダムで発行された初版である。 地図は、図版の下方に添えられた注釈が意味しているように、その出所は、VOC役員のB・デュトリ蔵書の日本原版によるものである。 レランドの地図はおそらく18世紀に最も影響を持ったもので、ケンペルの日本地図にかなり歪んだ様式化した形を提供し、また66の地域を仮名文字??で記述した初期のものの一つであり、西洋の地図にこの文字を使用した最初の一つである。 地図の装飾的質の高さは、フランスの聖クウェンティン大修道院長P・ビノン(1663-1743年)へ献呈された中央下の表題の飾り枠がいっそうその効果を高めている。周りを囲む挿し絵は、モンタヌスの1669年の作品から取られ、余白には注記が同時代人のイタリア人によって追加されている。 希少かつ重要、装飾的で影響力のある地図である。

No.65
シャトラン, H. A ( CHATELAIN, Henri Abraham ) 

「 日本図 (L'EMPIRE DU JAPON...) 」 
43.5×36(cm) 1719
【解説】: この魅力的で装飾的な地図は、1718-20年のシャトランの出版した「歴史地図帳」の5巻に出たものである。 この地図は、J・F・バーナードの「北方旅行記集」に発表された1715年の地図の忠実な複写である。レランドの地図と同じように、66地域を記すために日本の印刷された仮名または漢字を組み入れている。この地図の出典は、シャトランが記述しているように、日本のかなり様式化した、また、歪められた形の「行基式」地図からのものである。図示された輪郭は、うずくまったような歪みを生じ短縮された本州がとりわけ目立っている。 装飾的な表題枠は、日本の貴族の家紋によって囲まれて地図の中央下にあり、一方その右には詳細な長崎港の挿入図がある。 18世紀初期のヨーロッパ地図製作者の社会に、日本の木版画の影響を広め、その認識を促した興味ある地図である。

No.66
シャトラン, H. A ( CHATELAIN, Henri Abraham ) 

「 日本天皇の歴代の継承...日本地図 (SUCCESSION DES EMPEREURS DU JAPON... Carte du JAPON) 」 
43×38(cm) 1719
【解説】: 精巧な2折判の風景画は、1719年にアムステルダムで発行されたシャトランの「歴史地図帳」の5巻に発表された小さな日本地図を伴っている。 主たる2つの風景画は、1669年のアーノルド・モンタヌスから直接複写されたもので、左には、Cubo天皇のご逝去、右には1644年のオランダ大使の三輪到着を描いている。 中央の樹の系図は、やや奇妙な日本DairoからQuanoの歴代天皇の系図を描いている。 日本の小型地図は(11.5×15.5 cm)、1652/9年のハンソンおよびN・サンソンの輪郭を凡帳面に見本としており、東が基点で上部にあり、画面中央の下に出ている。本州と四国は九州の一部と共に図示されている。全ての主な町や都市は記されている。パネルの文章は詳細に2つの彫刻の内容を記述している。 興味深いまた装飾的な地図である。

No.67
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 現代史に合致した中華帝国と日本島 (The Empire of CHINA and Island of JAPAN Agreable to Modern History.) 」 
25×25(cm) 1725頃
【解説】: この精緻な銅版地図は、1725-1748年の間版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。 モルの1712年の日本地図と同じように、この地図は北方諸島の描写が特に興味深い。 地図には、中国、台湾、朝鮮は先端を切った円錐台形の半島として、またかなり歪んだ日本が図示されている。北部北海道(蝦夷)の島の図示は不鮮明で、点線の海岸線は東アジアの半島としての可能性も残している。モルはさらに東に、スターテン島(エトロフ)、デ・フリース海峡および1643年に初めてデ・フリースによって指摘され北太平洋の地図製作上その後、大きな混乱の原因となった伝説的な会社の土地(ウルップ)を識別している。 18世紀初期の最も人気の高かった、また多作のイギリス地図製作者の一人による精緻な銅版地図である。

No.68
ヴァレンティン, F ( VALENTYN, Francois ) 

「 ヴァレンティンの珍妙な18世紀初頭の地図 日本島新図 (Valentyn's curious early 18th Century map NIEUWE KAART VAN HET EYLAND JAPAN...) 」 
56×44(cm) 1726
【解説】: この重要で珍しい18世紀初期の日本地図は、ヴァレンティンの里程標となった東インドにおけるオランダの通商および植民地帝国の記述は、1724-1726年に「東インド報告記」5巻本としてアムステルダムで印刷され、その5巻に発表された。 レランドの地図(1715年)やケンペルの地図(1727年)と同じように、ヴァレンティンの地図は、日本国内の木版地図に基づいているように思われる。日本の形は他の地図ほどではないが、同じように歪められたものである。最も注目すべき特徴は本州が太った短縮された形であることである。 ヴァレンティンの作品の多くはオランダ東インド会社の保管文書、あるいはその管理部門の上司が提供したオリジナルの手書き図案、展望図、海図から引用されており、ヴァレンティンは出島から送られた日本の木版画に接することができたことが明らかに認められる。彼は出島のオランダ商人の報告書や日記を見る機会があったことを知られている。 確かにその形は、レランドやケンペルの同時代の地図が非常に類似していることと比べると変わっている。66の地域名が、長崎から京都、江戸へオランダ人が毎年辿ったルートの土地や海岸線の詳細と同じく記されている。

No.69
ケンペル, E ― ショイツアー, J. G ( KAEMPFER, E. - SCHEUZER, J. G. ) 

「 最も重要な日本に関してのヨーロッパ地図の一つ 68州に分けられた日本図 (One of the most important European maps of Japan IMPERIUM JAPONICUM IN SEXAGINTA ET OCTO PROVINCIAS) 」 
53×46(cm) 1727
【解説】:「18世紀の初頭において日本に関してのヨーロッパ地図に最も重要な影響を及ぼしたのはケンペルである」(コルタッツティ)。ケンペルの死後、スイス人学者J・G・ショイツアーにより出版されたケンペルの「日本史」は、有名なイギリスの植物学者で博愛主義者であったH・スローン卿から多くの影響を受けたもので、この本はスローン卿に献呈されている。スローン卿こそは、ケンペルの死後、その論文および原稿のコレクションを彼の家族から買いとった人で、そのほとんどが大英博物館のスローンコレクションの基礎を成している。ケンペル自身は、わずか1690年から1692年まで、出島の医者として日本に居留しただけであるが、それまであまり入手できなかった情報源ヘのユニークな入手方法があった。この瞠目すべき地図は、日本の「行基式」地図から取られたが、この地図と共に、日本を非常に歪んだ形で図示している。これはこの地域を日本の仮名文字で示す傾向がますます増えていく西洋の地図の一つである。 詳細な挿入地図は、ロシアおよび日本の原図に基づいて、日本の北の地域をそれぞれ図示していて、また北太平洋の混乱した地図製作を顕わしている。表は日本から外国ヘの距離で、一方、左下のパネルは、日本の祈祷の様子を描いており、神々が献辞を取り囲んだケンペルのスケッチを複写している。非常に重要で影響を及ぼした地図である。

No.70
ケンペル, E ― ショイツアー, J. G ( KAEMPFER, E. - SCHEUZER, J. G. ) 

「 希少なオランダ版のショイツアの日本地図 日本王国...ケンペル氏作成 (Scheuzer's map of Japan in a rare Dutch edition HET KONINKRYK JAPAN... den HEER KAEMPFER) 」 
50×42(cm) 1727
【解説】: この魅力的で、非常に装飾的な日本地図は、ケンペルの重要で影響力のある「日本歴史」の1729年オランダ版に出ているが、最初は1727年ロンドンで出版されたものである。 ケンペルは、1641年から19世紀の半ばまで、日本における唯一の交易基地であった長崎港のオランダ居留地出島に居留したドイツ人医師であった。1690年から92年間の2年の居留で、彼は膨大な資料の収集―地図、版画、工芸品、植物標本―を手に入れ、また自らも絵とスケッチを作成したが、これは後にイギリスの収集家であり、植物学者のH・スローン卿が購入した。有名なスイスの植物学者の兄弟であるスイス人学者J・G・ショイヒツアーによって編集され、そのコレクションは現在大英博物館に収蔵されている。 この地図は、オランダ語の翻訳、スローン卿ヘの献辞および地図の上の横書きの表題が除かれたことを除くと、1727年版の地図とほとんどあらゆる点で同じである。 ショイヒツアーの地図の珍しい版である。

No.71
ケンペル, E ( Englebert Kaenpfer ) 

「 日本地図...同じ日本の地図およびケンペル氏の意見を基に作成 (CARTE DU JAPON Dressee sur les Cartes Japonnais memes et sur les Observations de Mr. Kaempfer) 」 
32.5×25(cm) 1729
【解説】: この精巧な日本地図は、おそらく最初に I・ティリオンによって、ケンペルの有名な「日本歴史」の1729年と1732年版、フランス語およびオランダ語の8折判のために彫られたものであろう。 1727年の2折判日本地図を踏襲し、日本の輪郭は大きく歪んでおり、本州は特に不格好であるが、これはケンペルが、表題の記述のように、国内の木版画日本地図を信頼したためである。北方諸島もまた混同しており、カムチャッカは蝦夷島または蝦夷半島として描かれている。地図の内部は、全ての地方が、長崎から京および江戸までの日程と共に、示されている。 格子模様の上に大きな標題が左上に、中央の下にはマイル縮尺が描かれている。 ケンペル地図の1727年の2折判よりも希少で、この小さな地図はその後、多数のオランダ地図の、特にティリオンの見本となったが、これは18世紀の中頃まで広く印刷された。 希少で珍しい地図で、ケンペルの作品をさらに普及させ、また彼の1727年の地図が示したような、歪んで様式化した日本の輪郭が広まった。

No.72
ゾイター, M ― ロッター, T. C ( SEUTTER, M. - LOTTER, T. C. ) 

「 18世紀の最も精緻な地図の一つである 日本帝国。ケンペル作の国内観察記録による地理学上の新地図 (One of the finest 18th Century maps REGNI JAPONIAE NOVA MAPPA GEOGRAPHICA ex indigenarum observationibus delineata ab ENGLEBERTO KAEMPFERO recusa e emendata...) 」 
56×48.5(cm) 1730
【解説】: この魅力的な日本地図の珍しい版は、T・C・ロッターが、1730年頃ドイツのアウグスブルクで出版されたゾイターの世界地図帳の一つのために彫ったものである。 非常に様式化され歪められた輪郭は、特に本州がはなはだしく歪められているが、1727年のケンペルの地図を見本としている。この地図は精緻に彫られ、左上の非常に装飾的な表題の楕円形花枠は、ケンペルがペンを手にし、直接日本の海岸線を調査している様子を描いている。数人の東洋人が立派な巻き物の表題を囲んでいる。 ケンペルの挿し絵を見本として、この地図は、右下に金貨銀貨や日本の貴族や皇族の家紋の挿し絵がある。1727年の日本地図と異なり、日本の地方名はローマ字のみで、仮名文字はない。 希少で珍しい地図で、ケンペルの作品をいっそう普及させ、また1727年の日本地図が提供した日本の歪んだ様式化した輪郭を広めた。

No.73
ホンディウス, J ― デュプレシス, D ( HONDIUS, J. - DU PLESSIS, D. ) 

「 18世紀の時代錯誤 日本 (An 18th Century anachronism IAPON(IA)) 」 
24.5×28(cm) (1630)1730
【解説】: この奇妙な地図は、アムステルダムで1630年に初めて出たクロッペンバーグ-メルカトルの日本地図帳の使い古されて相当に手を入れられた後の版のようである。 この地図帳は、J・クロッペンバーグの出版であるが、地図のほとんどがP・ヴァンデンキールの彫った以前のミニアチュア地図帳よりわずかに大きな判である。この地図帳は2、3年間印刷されたが1636年頃には廃されたようである。1673年後、この原版を遺産相続したJ・ファン・ヴェスベルゲンの相続人が印刷を継続した。この地図帳の最後の完全判は1676年、アムステルダムで印刷された。 しかし、1734年、H・デュソーゼットはこの地図帳の改定混成版を、なお使用可能なクロッペンバーグの原版を、日本などのサンソンの最新の地図に組み入れて刊行した。この原版はおそらくこの2、3年前に購入され、D・M・デュプレシスの1730年の「新地理学??」3巻本に組み入れられたものであろう。 原版の摩滅は、表題に見られる[IA]文字の喪失や、海のけばが薄くなったことで分かる。朝鮮の地理の特徴は、摩滅して空白となり、フランス改訂版では彫り直されている。 奇妙な18世紀の時代錯誤である。

No.74
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 現代史に沿った中華帝国と日本島 (The Empire of CHINA and Island of JAPAN Agreable to Modern History.) 」 
24×25(cm) 1730頃
【解説】: この精緻な銅版地図は、1725-1748年の間に版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。この地図は、後にやや小型になって再彫され、2折判の参照文(引用文)と新たに追加された注釈が興味ある読み物となっている。 地図の右下の端には、中華帝国の注釈があり、北海道の北には、次の面白い注意書きがある。「日本は島なのか、蝦夷地によって大陸の一部に連なっているのかはまだ結論が出ていない。大きな行く手をさえぎる山々によって連絡が閉ざされている。蝦夷地はタタールの一部なのか、腕のような細長い海によって、分断されているのかは明白ではない」 その他の点では、地図の地図製作法は同じである。 18世紀初期の最も人気があり、また多作のイギリス地図製作者の一人による魅力的な地図である。

No.75
ミルネ, R (彫工) ( MILNE, Robert (engraver) ) 

「 トンキンから朝鮮に至る中国海岸、および日本諸島、台湾および中国沿岸沖の小さな目印に関する地図 (A Map of the Sea Coasts of China from Tonquin to Corea also of the Islands of Japan,...) 」 
38×30.5(cm) 1730頃
【解説】: ミルネにより彫られた興味のある非常に珍しい地図であるが、出所その他は不詳である。これは18世紀初頭のイギリスの中国および極東ヘの旅物語からのものである可能性が最も高い。 これは、大詐欺師プサルマナツァーの意外な新事実の記述に伴って発行されて、その後撤回された地図との類似点がある。 プサルマナツァーは、台湾人になりすまし、新しいアルファベットと言葉を捏造した。18世紀初頭にはロンドンの上流社会をまんまとだまして、オックスフォード大学で地位を得たが、大学の学者は彼のもたらした新しい言葉を研究したいと希望した。彼の台湾での経験話は1705年から1730年までに英語で出版された。確かに、プサルマナツァーの出現は、極東のこの地域に対するイギリス人の興味をかきたてた。 この時代に持ち帰られた様式化した日本の木版画地図が、ヨーロッパ人地理製作者によって複写されたことの影響によるが、本州は大幅に歪められている。内陸部の詳細はほとんど無く、大坂、江戸、長崎のみが図示されている。周囲の主な島々や航海ポイントと岬は明らかにされている。 珍しい一点である。

No.76
モル, H ( MOLL, Hermann ) 

「 大タタール国。日本諸島 (GREAT TARTARY. The Isle of IAPON.) 」 
18×16.5(cm) 1730頃
【解説】: このタタール国と日本地図は、イギリス地図製作者モルによって制作され、1729年以降ロンドンで版を重ねたT・サルモンの「現代史」に発表された。 説明文の中に挿入された地図は2つの部分からなっている。上半分は、イエズス会のF・ヴェルビースト神父が1682年にたどった北京から満州のウラ市までのルートを図示している。ヴェルビーストこそ1675年、北京の観測所を再建し、1673年と74年に2枚の重要な中国地図を制作した人である。 地図の下半分は、ウズベキスタン、タルキスタン、モンゴル、満州からノヴァヤゼムリヤの北に至るまで中国北部地域を図示している。日本は地図の右下隅に示され、おそらくモルが描いた多くの輪郭の中でも最も奇妙な形である。先ず、本州は狭い海峡で北海道から隔てられているが、北海道そのものは大きなアジアの半島の一部となっている。さらに東に、モルは「スターテン島」のあるデ・フリースの輪郭を踏襲して、大きな不完全な会社の土地を「蝦夷地」と呼んでいる。 日本の北のアジア地域の興味のあるまた奇妙な地図である。

No.77
ティリオン, I ( TIRION, Isaac ) 

「 新帝国日本図 (NIEUWE KAART VAN T'KEIZERRYK JAPAN...) 」 
31.5×27.5(cm) 1735頃
【解説】: ティリオンの1735年頃「新常用地図帳」に初めて発表された精緻で詳細な諸島地図である。 この地図はケンペルの2枚の地図から忠実に複写されたもので、1727年の2折判と1729/32年の小型の8折判であるが、これが非常に類似している。 地域の区切りは、長崎から都(京都)と江戸(東京)までのオランダの江戸参府のルートと共に示されている。北海道は明らかであるが、奇妙なことに本州の北の広大な土地は「カムチャッカ」と呼ばれ、この時代の北太平洋海岸線の混乱した地理製作を反映している。 諸島の精緻な地図で、次の10年で、広く複写され、また異なった版に再版されたものの一つである。

No.78
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本諸島および周辺中国沿岸地図 (CARTE DES ISLES DU JAPON Et des costes de la Chine les plus voisins) 」 
28×32.5(cm) (1735)1736
【解説】: この珍しいまた重要な地図は、1736年パリで最初に出版されたP・X・デシャルルヴォアの4折判「日本の歴史・地誌」の2巻に出ている。 この地図は、日本の北の島々の珍しい描写で興味深いものである。これは1727年のショイツアー-ケンペル地図の左上に見える挿入地図と輪郭が同じであり、これをショイツアーは最近のロシア地図が出典としている。 この地図は、明らかに1715年にカムチャッカに3つの探検隊が派遣された後、この地域のロシアの興味が増大したことによるものであり、またピヨートル大帝の数回の視察を機に、この地域の地図がますます数多くヨーロッパに出まわったことによるものである。この地域の地図は、デ・リスルとホーマンによって印刷されたが、とりわけ注目に値するのは1730年にホーマンにより出版された1枚のカスビ海およびカムチャッ力の地図である。 この地図は、北海道、サハリンおよびカムチャッカを混同して一つの細長い半島にしてしまった。ロシアの交易商人のルートは北極圏のレナからカムチャッカまで図示されている。この混同した輪郭は、デ・フリースが示した、エトロフとウルップのある千島諸島はスターテン島として、そして会社の土地はその東に空白のまま残された。 北方領地の魅惑的な地図である。

No.79
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 1735-6年のベランの影響力のある地図 日本帝国地図...地図製作はベラン氏。1735年 (Bellin's influential map of 1735-6 CARTE DE L'EMPIRE DU JAPON... Par le Sr Bellin... MDCCXXXV.) 」 
53.5×42(cm) (1735)1736
【解説】: この日本の大判の地図は、1736年パリで出版されたP・X・デシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に初めて出ている。 この地図はその表題で、その情報源はポルトガル人とオランダ人およびイエズス会士の回想録であるとしている。ポルトガル人もイエズス会士も日本から100年近く排除されていた事実を考慮すれば、描写が幾分歪んでいることは驚くほどのことではない。 これに最も類似しているのは、1727年のショイツアー-ケンペル地図であるが、諸島の形は多少精密である。興味深いのは、ベランはオランダ人が長崎から辿った九州から江戸ヘの参府の通常のルートと共に、九州にこれまでヨーロッパの地図に示されなかった道路図を入れている。66の地域は日本の回りの島々に関する2つの注釈と共に示されている。 精巧で目立つ表題枠は、非常に装飾的なロココ様式の楕円形の花枠の上に、明るい太陽光線を放つ人物の頭が描かれ、扇子を持った日本婦人と火打ち式の小銃をもった侍の二人の日本人像が支えたものを組み込んでいる。 重要で影響を及ぼした地図で、18世紀を通じて広く複写された。

No.80
ティリオン, I ( TIRION, Isaac ) 

「 日本帝国地図 (CARTA ACCURATA DELL'IMPERIO DEL GIAPPONE) 」 
32×25(cm) 1738
【解説】: 1735年にアムステルダムで出版されたティリオンの「新常用地図帳」に初めて発表され、またケンペルの小型8折判の「歴史」に出ている類似の地図を見本とした、ティリオンの精緻な日本地図の魅力的なイタリア版である。 このイタリア版は、「全世界の国と人々の現状」と題され、G・アルブリッチにより、1738年にヴェネツィアで印刷されたT・サルモンの「歴史」のイタリア版に印刷された。この地図はフィリッピン諸島の地図と、小さく彫られた出島商館の鳥瞰図と共に、第2巻に出ている。 その他の点では、この地図は地理製作上また地誌的詳細はこれ以前のティリオン地図のオランダ版を踏襲している。 表題は左上の円形花枠の中に見える。 ティリオンの地図は多く再発行され、また類似のイタリア版がこれと同時に出た。