No.141
ペロー, A. M ( PERROT, Aristide Michel ) 

「 日本帝国 (EMPRE DU JAPON) 」 
16×16(cm) 1826
【解説】: この奇妙な小ミニアチュア地図はペロー(1793-1879年)によってパリで出版された。ペローは1823年、イギリス諸島の地図帳のシリーズものと1825年のフランス県の地図帳で最も良く知られている。 この地図は一般地理学または特定のテーマの地図帳から引用されたようで、内陸の詳細は主な山脈が青と赤で強調されて示されるだけに限られて、個々の地域は番号が付けてあるがその記号表はない。左上の挿入画は沖縄および中央琉球諸島を図示しているが、これもまた詳細はない。 非常に奇妙で珍しい地図である。

No.142
クルーゼンシュテルン ( VON KRUSENSTERN, Adam ) 

「 アダム・フォン・クルーゼンシュテルンの重要なロシア地図 1827年 日本帝国の地図 (Adam Von Krusenstern's important Russian map 1827 Carte de L'EMPIRE DU JAPON...) 」 
61×88.5(cm) 1827
【解説】: この精緻でまた詳細な大判地図は、1826年から1838年の間に、ペテルスブルクで出版されたフォン・クルーゼンシュテルンの太平洋の重要な地図帳の2つの章に出ている。 この地図はクルーゼンシュテルンが、1803年から1806年の間に「ナデージュダ」号および「ネヴァ」号に乗船して、最初のロシア世界周航で行った日本沿岸の調査に基づいたものである。 クルーゼンシュテルンは、1803年8月ロシア皇帝の密使として、在外通商公館を開きまた日本におけるオランダ以上の特権を得たいという目的で、長崎に到着した。日本との交渉が決裂して、翌年4月まで未決のまま監禁された。しかしこの探検の成果によって、フォン・クルーゼンシュテルンは、日本の西部の大部分を正確に調査したヨーロッパ人の最初の一人に数え上げられる。地図は、九州の全部、四国、東北東部を除く殆どの本州を図示している。右下の挿入図は、クルーゼンシュテルンの「ナデージュダ」号の航跡で、長崎ヘの進入航路を描いている。なお同船は一般地図にも描かれている。この地図はワイマール大公に献呈されている。 19世紀初期の日本にかんする最も重要なロシアの地図製作者および水路測量者の一人による非常に重要な地図である。

No.143
アシェトン, J ― テグ, T ( ASSHETON, John - TEGG, Thomas ) 

「 日本 (JAPAN.) 」 
25.5×20(cm) 1829
【解説】: この日本の魅力的な小鋼版彫り地図は1829年ロンドンでテグによって出版された。J・T・アシャートンが作図し、J・シャーリーによって彫られた。シャーリーは同じ頃から始まったSDUK地図帳シリーズの彫工としてよく知られている。 この地図は、1814年のJ・トムソンの日本の3つの主な島の全てに朝鮮の東海岸の一部が描かれた地図を忠実に複写している。 表題は中央上に装飾的な四角形のなかに見える。

No.144
作者不明 ( Anonymous ) 

「 日本 (GIAPPONE) 」 
7×10(cm) 1830頃
【解説】: 好奇心をそそる日本諸島の小地図は、おそらくイタリアの地理教育の地図として、または19世紀初め特に人気のあったトランプのカード地図として出版されたのであろう。 日本の3つの主な島が、正しい輪郭でまた北海道およびサハリン半島は形よく描かれている。奇妙なのは、北海道の北東に1643年デ・フリースによってスターテン島および会社の士地と名づけられた2つの広大な士地が、ここでは千島諸島南端の2つの島に名づけられて、なおそれが信じられていることである。地図の下側にそって、2、3の興味ある注釈があり、国の人口、農業、政治機構を述べている。 興味深いまた非常に珍しい地図である。

No.145
ダウアー, J ― ティースデル, H ( DOWER, John - TEESDALE, Henry ) 

「 中国と日本 (CHINA AND JAPAN) 」 
41×33.5(cm) 1831
【解説】: この魅力的な中国と日本の地図は、1831年ロンドンで、ティースデルによって出版された「一般地図帳」のため、ダウアーが図形を描き彫った。 多作の彫工であったダウアーは、 19世紀半ばの重要なイギリス地図帳のほとんどの作品を手がけたが、とりわけ、T・モウルやグリーンウッド兄弟のイギリス郡地図帳で有名である。ティースデルの会社は1830年代に最盛期にあり、3つの主要な地図帳「新イギリス地図帳」「新旅行地図帳」そしてこの「一般地図帳」を出版した。 地図は中国全士およびそのチベットからモンゴルまでの進貢諸国、中国満州および朝鮮を図示している。日本は、サハリンと北海道と共に描かれ、サハリンは中国領士の一部として図示されている。 1830年代の魅力的なイギリス地図である。

No.146
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本およびその周辺諸島および保護領 (JAPAN MIT SEINEN NEBEN UND SCHUTZLANDERN...) 」 
34.5×22.5(cm) 1832
【解説】: この朝鮮、日本、北海道および千島諸島は、1832年に出版されたシーボルトの1823年から1830年までの彼の日本航海および日本滞在の記述のドイツ語版初版にPlate Ⅰ(図Ⅰ) として出てくる。 この地図はシーボルトが表題に説明しているように日本の木版地図「日本???」から取られたものである。表題は日本語で、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細、および1808年に発見された間宮海峡を描いている。 シーボルトは1823年に日本に赴任して、民族誌学、博物誌および地図製作の作品の系統的な収集を始め、日本についての広範な詳細な研究の基礎を築とうとした。しかし、 1829年、滞在の終わりを迎えて、外国人には法律上禁止されていた伊能忠敬、間宮林蔵、最上徳内の地図を入手して所有していることで、スパイ活動の容疑で逮捕され、1830年日本を追放処分された。 シーボルトの本は、1832年に刊行が開始され、一部は1858年に刊行されたが、彼の生前には完了せず、現在もなお完了していないが、19世紀の日本研究の最も重要な一つであり続けている。

No.147
アンドリヴォ ― グーヨン, J ( ANDRIVEAU - GOUJON, J. ) 

「 中国帝国および日本地図 (Carte de L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON...) 」 
50×38.5(cm) 1834
【解説】: この精巧に彫られた中国および日本の詳細地図は、1834年、パリで、出版業者兼地図販売業者のアンドリヴォーグーヨンの「世界地図帳」に発表された。 アンドリヴォーグーヨンの会社は、G・アンドリヴォ(1805- 1880年)とM・グーヨンの娘との結婚によって始められ、パリのルーエデュバックに設立以来19世紀の終わりまで続いた。 地図は、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。日本は地図の右端に、北海道と千島諸島の南端と共に描かれている。サハリンは中国と日本領に分けられて描かれている。 この時代のこの極東地域を図示した多数のフランス地図の1枚である。

No.148
S. D. U. K ― ボールドウィン & クラドック ( S. D. U. K. - BALDWIN & CRADDOCK ) 

「 日本帝国 (EMPIRE OF JAPAN) 」 
35×43(cm) 1835
【解説】: 実用知識普及協会後援の下に、ボールドウィン&クラドックによって出版された興味深い19世紀前半の日本地図である。この協会はその目的を「有用な情報を全ての社会階層に伝達すること」とした社会改良団体である。本、雑誌および百科事典の大量の発行部数は、またこうした質素な彫りと詳細な地図シリーズと結びつき1829年から1832年の間に初めて一部が出版された。地図は、3つの主な島の輪郭がますます正確になり、地域の区切りや都市は全て記されている。右上の2つの挿入画は、長崎港と南千島諸島を描いている。魅力的で重要なペリー以前の地図は、なおその情報源に100年前のケンペルの作品と、ロシア人クルーゼンシュテルンの調査から引用している。クルーゼンシュテルンは、1826年から1838年にペテルスブルクで2部からなる太平洋地図帳を出版し、また19世紀初頭、秋田までの本州西部と九州の殆どの水路測定を行った。 SDUK地図は、普及版となり、この地図帳は1860年代終わりまで、ロンドンの多数の異なる出版社のインプリントで、情報を更新して再印刷された。

No.149
ウト, J. J. N ( HUOT, J. J. N. ) 

「 中国帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
30×22(cm) 1835
【解説】: この中華帝国と日本の小地図は、パリの彫工ティエリーによって、ウトによるC・マルテ-ブランの「世界地理」の改定版のために彫られた。1835年の日付がある。 地図は、この時代の多数のフランス地図と共通で、中央アジアとチベットからモンゴルと満州までの全中華帝国が描かれている。 日本は北海道と共に正確な輪郭で描かれていて、千島諸島の南端とサハリンも描かれている。千島諸島はロシア領土に属すことを示す色分けで、一方サハリンは中国と日本に分けられている。日本群島のどの部分にも内陸の詳細は全く示されていない。

No.150
ペロー, A. M ( PERROT, Aristide Michel ) 

「 日本 (JAPON) 」 
14.5×19(cm) 1837
【解説】: フランスの地理製作者ペロー(1793-1879年)は、1820年代および1830年代のイギリスおよびフランスのミニアチュア地図帳でよく知られている。 この小さな日本地図は、最も単純なデザインで、P・タルデューが彫ったものである。タルデューは18世紀末および19世紀はじめの有名なフランスの地図製作および彫工の一家に数えられる。 地図は、日本と中国の沿岸を描き、北海道、千島諸島および南サハリンは日本の領土として色付けされている。 19世紀初めの珍しいフランスの地図。

No.151
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本帝国の一般地図 (CARTE GENERALE DE L'EMPIRE JAPONAIS.) 」 
31.5×22.5(cm) 1838
【解説】: この朝鮮、日本、北海道および千島諸島の一般地図は、シーボルトの1823年から1830年までの日本ヘの航海および日本滞在を記述したフランス語の2折判のPlateⅠ(図Ⅰ)に出てくる。ドイツ語版の初版は一部が1832年に出ている。これは1838-40年のフランス語版である。 この地図は、シーボルトが表題に説明しているように、殆どそっくり複写しているドイツ語版と同様に、日本の木版地図「日本???」と題された日本の木版地図からから取られたものである。表題は日本語で出ており、日本は北が右となり、中国からサハリンと千島諸島の沿岸に取り囲まれて図示されている。右下の小さな挿入図は、サハリンの北海岸の詳細および1808年に発見された間宮海峡を描いている。 フランス語版は、A・ベルトランによる出版で、オレルアン公に献呈されており、1838年から1840年の間に5巻が、150の彫版を収録した1冊の地図帳と共に出ている。

No.152
フォン=シーボルト ( VON SIEBOLD, Philip Franz ) 

「 日本国図。日本人による原地図および天文学観測にならって。(1975年、東京、講談社の複製版) (Philip Franz Von Siebold's important Map 1840 KARTE VOM JAPANISCHEN REICHE nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner...) 」 
55×39.5(cm) 1840
【解説】: この最も重要で影響力を及ぼした地図は、1832年から1859年に一部が出版されたシーボルト「日本、日本とその隣国および保護国についての記録文書」に出たものでこの地図は1840年の日付がある。 この地図はシーボルトの1823年から1830年までの出島滞在期問に入手した情報をまとめたものである。1829年、彼はスパイ容疑で逮捕され1830年日本から永久追放処分をうけた。この地図が最大の権威ある影響を及ぼしたのは、彼が伊能忠敬、最上徳内、間宮林蔵などの当時の一流日本地図製作者の多くから得た資料である。その中には、九州西方の小さな一群の島である奄美大島の詳細な海岸線の概観図も含まれる。長崎港もまた右下の挿入図に示されているが、シーボルトが1828年出島で作成したもので、かれの本にも出ている。地図は、日本の情報源を使用しただけでなく、1804-1805年に日本西部を包括的に調査し、その日本の大判地図を1827年に出した、ロシアの海軍提督クルーゼンシュテルンに依ったことも記している。 フォン・シーボルトの地図はその後、日本の地図の基礎となり、大きな影響力を持った。これは西洋と日本の地図製作者の文化交流による魅力的な産物で、19世紀半ばに発表されたとりわけ優れて正確な日本地図である。

No.153
ラピーと息子 ( LAPIE, Alexandre et fils ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、ラピー父子によって制作された。父子ともにフランスの「Etat Major」の将校でまたそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者でもあった。 P・タルデューが彫ったこの地図は、ラピーの1829年から1851年までの「世界地図帳」の様々な版に発表された。この地図は、右下の表題に1842年の日付がある。 地図は、中央アジアとチベットから北部満州、朝鮮および台湾におよぶ中華帝国を図示している。日本は北海道、サハリン、南千島諸島と共に描かれている。南千島とサハリンは日本の領土として示されている。

No.154
ラピー流儀 ( After: LAPIE, Alexandre ) 

「 中華帝国および日本地図 (CARTE DE L'EMPIRE CHINOIS ET DU JAPON) 」 
55×40(cm) 1842頃
【解説】: この精緻で詳細な大判の中国および日本地図は、初めてラピー父子によって出版された。父子共にフランスの「Etat Major」将校で、またそれぞれ王と王太子妃つきの地図製作者であった。 この地図は、1829年から1851年までのラビーの「世界地図帳」の様々な版に出ている。 この地図は、1842年ラピー地図と同じ世界地図および2折判の出版事項が刻印されているが、表題の下の部分は完全に消され空白である。 彫工ラルマンは、ラピーの地図に、いつも魅力的な渦巻模様の描写を描いた書写の彫工であった。地図帳の新しい版と共に、下の表題はそっくり彫り直さなければならなかったか、または地図の再発行を簡単にするため空白にされた可能性がある。 その他の全ての点で、この地図はラピーの地図と同じである。

No.155
ペルテス, J ― ベルクハウス, H ( PERTHES, J. - BERGHAUS, H. ) 

「 ダンヴィルとクラップロートにもとづいた中国・日本図 (KARTE VON CHINA UND JAPAN DEN MANEN D'ANVILLE'S UND KLAPROTH'S Genidmet. Potsdam von HB 1843) 」 
97×64(cm) 1843
【解説】: この大判の極東地図は、北部インド、ヒマラヤ、およびバイカル湖から朝鮮、日本、サハリンおよび千島諸島まで広がり、H・ベルクハウスの大判のアジア地図帳に出ており、1832年初めてドイツのゴータで、J・ペルテスによって出版された。 この地図は、その表題の参照にあるように、18世紀のフランス地図製作者ダンヴィルの情報を使用している。ダンヴィルは最新のイエズス会の報告書を基にした影響力のある1737年の中国地図、および1752年のアジア地図を作成した。この地図はまた、東洋についての作家であり旅行者であり学者であったH・J・フォンクラップロートの報告からも引用している。クラップロートは日本の地図製作者の問では、林子平の影響力のある「三国通覧図説」および蝦夷図(北海道)を複写しヨーロッパへ伝え、1832年ロンドンで初めて出版されたことで最もよく知られているだろう。彼はまた1806年にバイカル湖の地図を出版している。 この地図は興味深いテーマ別の色記号で、行政区分地域の境界を異なる色で区別した。北海道とエトロフは日本と図示され、残りの千島諸島はロシア領とされた。 この時代の多数の出版物を出したドイツ出版社の一つによる精緻な石版地図である。

No.156
ロシアン ( LOTHIAN, John ) 

「 日本 (JAPAN) 」 
35×28(cm) 1844
【解説】: スコットランドの出版業者ロシアンによって、1844年に彼の「人民地図帳」に発表された魅力的な日本諸島の石版地図である。 地図は朝鮮の東海岸から本州の北部までで、北海道は右上の小さな挿入図に描かれている。 18世紀中葉のル・ルージュやダンヴィルのフランス地図を忠実に見本として、本州の輪郭はなお幾分歪められている。各地方は、地方ごとに町や都市と共に区分されている。 18世紀フランスの時代遅れの輪郭を使用した、珍しいスコットランドの石版地図である。

No.157
マルッゾラ ( MARZOLLA, Benedetto ) 

「 日本帝国 (IMPERO DEL GIAPONE) 」 
43×58(cm) 1847
【解説】: ナポリで、マルッゾラの「地理学地図帳」に発表された珍しい日本の大判地図で、イギリスのアロウスミスおよびSDUKの地図を見本としている。 地図は北は南千島諸島まで日本の全ての4島を組み入れている。左上の大きい挿入図は長崎港と港町を描き、一方地図の周囲には日本に関する地理、政治、住民、宗教、商業、農業についての詳細な説明文がある。 興味のある珍しい19世紀中葉のイタリアの日本地図である。

No.158
シャープ, J ( SHARPE, John ) 

「 東南アジア ビルマ-中国-日本 (SOUTH EASTERN ASIA BIRMAH-CHINA-JAPAN) 」 
41×31.5(cm) 1848
【解説】: シャープ(1777年一1860年)は、イギリスの地図製作者で、1847年から 1849年までにロンドンで出版した「通信地図帳」で良く知られている。この精緻な石版地図は、その地図帳からのものであるが、彫工J・W・ローリー(1803-1879年)および出版業者チャップマンとホールが、1848年日付で出版事項に印されている。 地図は北東インドビルマとチベットの東南アジアから中国、朝鮮、日本と北海道およびフィリッピン諸島を図示している。 日本については、主な都市と主たる地理的な特徴以外はほとんど詳細はない。

No.159
フォン=シュテュルプナーゲル ( VON STULPNAGEL, Franz ) 

「 中国および日本 (CHINA UND JAPAN) 」 
38×27(cm) 1850
【解説】: この精巧な石版地図は、1850年版のA・シュティーラーの「常用地図帳」のために、シュチュルプナーゲルが彫ったもので、おそらく19世紀のドイツ地図帳で最も人気がありまた最も版を重ねたものである。この後の全ての重版はドイツのゴータで、J・ペルテスによって出版された。1850年の版は63点の地図をふくんでいる。 地図はチベットおよび中央アジアから、中国、朝鮮、日本、北海道およびサハリンまでの極東を図示している。地図の下に書かれた文は、中国の地方区分と政治区分をしるしている。ヨーロッパに対して開港された中国の港は色で下線が引かれている。 興味深いまた詳細な19世紀中葉の地図である。

No.160
フレミン, A. R ( FREMIN, A. R. ) 

「 中国と日本 (CHINE ET JAPON) 」 
26×20(cm) 1850頃
【解説】: この小型の中国および日本の石版地図は1850年頃にパリでフレミンによって出版された。フレミンは地理学者であり、出版者でまた影響力のあるフランスの地図製作者J・B・ポアソン(1760-1831年)の弟子であった。フレミンはフランスの陸軍省に所属し、彼の最も良く知られた仕事は1844年、A・ドネと一緒に出版したフランスの地図帳である。 この地図は、トルキスタンおよびチベットの国境から満州までの全中国、朝鮮、そして北海道およびサハリンを含む日本全体を図示している。興味深いことに中国満州の国境はアムール川の北の山脈まで広がって、またサハリン島は当初は日本の領士の一部として色で示されていた。