No.101
アンソン, G ( ANSON, George ) 

「 無題:北部フィリッピン、マリアナ諸島、および日本を描く。 (Untitled: Depicts the Northern Philippines, the Marianas and Japan.) 」 
32×28(cm) 1763頃
【解説】: アンソンの世界周航は、刊行物の記事として大当たりをした。探検の航海は1740年、6隻の船に2000人に近い乗組員で出発した。1744年に帰国したときは、たった1隻の船で乗組員の数は半分に減っていた。 アンソンの航海の第一目的は、太平洋沿岸地方に沿ってスペインの植民地領を襲撃し、略奪することであった。アンソンの最大の注目に値する成功の一つは1743年フィリッピン諸島のサマル島沖で、スペインの財宝を積んだガリオン船「XXXXXX」号の捕獲であった。 そのガリオン船は、メキシコのアカプルコ港から、フィリッピン諸島の間を結ぶ定期的な財宝を積んだ商船隊に属して、香辛料と磁器を銀で交易していた。ガリオン船のほとんどは、北太平洋の風と海流を利用し、北寄りの弧をたどってメキシコへ航路をとった。アンソンのガリオン船の捕獲で、商船団の使用した海図を入手し、初めてスペイン人が太平洋を横断するために使用した航路の詳細な情報を提供した。地図は、マニラからマリアナ諸島経由の往路の航路と、より南寄りのコースの復路の航路を示している。 18世紀半ばの最も人気のあった世界周航話の一つに使われた、重要で影響を及ぼした地図で、この地図は1763年頃のフランス版からのものである。

No.102
ボルトン, S ― シール, R . W ( BOLTON, S. - SEALE, R.W. ) 

「 アジアの版画Ⅱ:日本、朝鮮、モンゴルおよび中国の一部  (ASIA Plate II: JAPAN, COREA, THE MONGHULS & part of CHINA...) 」 
35×48(cm) 1766
【解説】: この極東の一部を描いた地図は、S・ボルトンが作成し、18世紀中期のイギリスの一流彫工の一人、R・W・シールが彫った。 この地図は、1766年ロンドンで出版された、M・ポッスルスエイト??の「交易及び商業辞典」の中の1枚として出た。これはフランス地図製作者ダンヴィルの1750年代に作成した大判の地図から、英文との組み合わせ地図として組み入れたものである。ボルトンは、1752年のダンヴィルの大きな影響力を及ぼしたアジア地図の輪郭を使用したが、日本群島は北海道も3つの主な島も、明確に描かれた輪郭であった。 興味深いダンヴィルからの地図で、イギリスにおける彼の影響を示すものである。ダンヴィルの地図は、R・セイヤー、ローリー、ウィットル等人気のあった18世紀末の地図帳に組み入れられ、イギリスにおいて、広く認められまた影響力も大きかった。

No.103
ブリオン=デ=ラ=トゥール, L ( BRION DE LA TOUR, Louis ) 

「 大タタール国および日本諸島 (GRANDE TARTARIE ET ISLES DU JAPON...) 」 
31×27.5(cm) 1766
【解説】: この魅力的に彫られた銅版地図は、1776年パリでL・デスノスによって出版されたデラ・トゥール(1746-1823年)の影響力のある華やかで装飾的な「市民と聖職者の一般地図帳」のために、制作したものである。 地図は、カスピ海とノヴァヤゼムリャ島からカムチャッカ、日本、朝鮮に至る北東アジア地方が図示されている。日本と朝鮮は、ダンヴィルのタタール、中国およびアジアの初期の地図の輪郭を見本にしているが、本州はややでこぼこの輪郭である。北海道の島はやや東に広がり過ぎていて、エトロフとイルップの2つの千島諸島はデ・フリースのスターテン島と会社の士地とされ、そして残りの千島諸島は、カムチャッカの東にはっきりと示されている。 地図は別個に彫られた装飾的なフランスの百合の花飾りの紋を取り入れた縁取りで囲まれている。 デスノスによるこの地図帳の重版には、より大きい2折判も出ており、注釈文のパネルが地図の両側の空白部分に貼り付けられ、また別の独立して彫られた縁取りが全部を囲んでいる。

No.104
ベラン, J. N ( BELLIN, Jacques Nicolas ) 

「 日本帝国地図 (CARTA DELL'IMPERO DEL GIAPPONE...) 」 
31×21(cm) 1770頃
【解説】: ベランの精巧に彫られた魅力的な日本地図で、1752年のプレヴォの「旅行記集」の第10巻に初めて発表されたが、これは珍しいイタリア版である。プレヴォの作品の人気は高く、まもなくこの版はオランダ語、ドイツ語、デンマーク語でも印刷された。この地図はイタリア語版のようである。 これは新たに彫られた地図であり、表題の花枠はややあっさりとして、また筆記文字がイタリア語に翻訳されていることを別にすれば、全ての点において、この地図は1752年の地図と同じである。 この地図の珍しい稀少な版である。

No.105
ボーエン流儀 ( After: BOWEN, Emanuel ) 

「 日本帝国新地図 ポルトガルとオランダの記録、パリにてベラン氏出版。E・ボーエンによる訂正 (NUOVA CARTA DELL'IMPERIO della GIAPPONE guista la Memorie de'PORTOGHESI e OLANDESI... Publicata da Mr.Bellin a Parigi e Rectificata... da Eman Bowen.) 」 
40.5×34.5(cm) 1770頃
【解説】: ボーエンの1747年の日本地図の特異なイタリア版であるが、これはまたシャルルヴォアの「日本の歴史・地誌」に発表された、フランスの地理製作者ベランの1735年の地図を忠実に見本としたものであり、このベラン地図はボーエン自身が複写したものである。この地図は、今日まで確認はされていないが、ボーエンの「地理新体系」のイタリア版に出た可能性があり、または当時書籍出版として普及していたイタリアの世界地名辞典に出たものかもしれない。 地図の詳細は基本的にはボーエンのものと同じであるが、表題枠は、東洋の人物は無く別の縁取りで、魅力的なロココ調の縁に置き換えられている。 これと同じ頃、1785年、W・バチーヌが出版したボーエンの地図帳「~地図帳」がアムステルダムで出た。したがって、ボーエンとベランの地図はヨーロッパ中に幅広い人気を博していた。 どの主要な地図製作文献あるいは参照文献にも記録されていない珍しい一品である。

No.106
ブリオン=デ=ラ=トゥール, L ( BRION DE LA TOUR, Louis ) 

「 大タタール国および日本諸島 (GRANDE TARTARIE ET ISLES DU JAPON...) 」 
31×27.5(cm) 1766
【解説】: この魅力的に彫られた銅版地図は、最初は、1776年パリでデスノスによって出版されたデラチュール(1746-1823年)の影響力のある華やかで装飾的な「市民と聖職者の一般地図帳」のために制作された。 地図そのものは、1766年の地図帳に印刷された地図と、右上隅の2判の番号以外は、あらゆる点で同じである。しかし、この地図は、やはりデスノスによって後に出版された大判の地図帳からのものである。これは2折判で、地図の両側の見返しの外側に注釈パネルが付け加えられ、それはロココ調の花綱、科学の器具および地球儀の新しい装飾縁取りで囲まれている。

No.107
ラットレ, J ( LATTRE, Jean ) 

「 日本諸島を含む中国帝国 (L'EMPIRE DE LA CHINE avec les Isles du Japon...) 」 
25×18(cm) 1770頃
【解説】: ラットレによって、1770年頃にパリで印刷された、中国と日本の魅力的な小型銅版地図である。 この地図は、中国と日本の情報源および輸郭をダンヴィルの地図から取り入れ、日本の主な3つの島は北海道の南端と共に図示されている。 表題は右下に花綱の花枠の中に書かれ、中国の異なった地域区分を概説した表がついている。地図の下には、中国、日本、海里、フランスマイルの4つの縮尺が見える。

No.108
ドゥ=ヴォゴンディ, R ( DE VAUGONDY, Robert ) 

「 アジアロシア沿岸、蝦夷および日本諸島を含むアジア北部および東部地図 (CARTE des Parties Nord et est de L'ASIE qui comprend LES COTES DE LA RUSSIE ASIATIQUE,... LE JESSO ET LES ISLES DU JAPON...) 」 
37×29(cm) 1774
【解説】: ディデロの有名な「百科全書」の1774年の別冊(補遺)として、ヴォゴンディの地図が使用された地図帳の部は、多くの興味ある太平洋の西海岸と北西部海岸を含んでいて、カリフォルニアとそれ以北の地域を描くために、その時点までに使用された様々な輪郭を客観的に相関関係で捉えることとなった。 ヴォゴンディは、ここで、北太平洋について、異なる地図製作の輪郭を小さな多数の挿入地図で対照させて、西洋の地図製作上の知識の集積を纏め上げている。大きな地図は1774年時点のスカンディナヴィアから日本までの地域の描写であるが、依然不正確である。先ず一つは、本州の形で、またその北には北海道がサハリンと合併されて描かれでいる。アメリカの北西海岸は仮の海峡と入江の配列で示され、北西航路の憶測が続いている。4つの挿入地図はこの地域の詳細を与えていて、挿入地図1は、オルテリウスの1589年の太平洋地図を使用し、挿入地図3は、P・キノの1701年のバハカルフォルニア地図を、挿入地図4は、C・ウィツトフリートの1597年のアニアン、すなわち北西アメリカの地図である。 太平洋北部および北西部の魅惑的な西洋の地図製作知識の概論である。

No.109
サンティニ, P ( SANTINI, P. ) 

「 日本帝国 (L'EMPIRE DU JAPON...) 」 
53.5×46.5(cm) 1778
【解説】: ヴォゴンディの作品の人気は大きかったので、サンティニは、1776年から1784年間ヴェニスで、同じタイトル「世界地図帳」のわずかに改定した2折判地図帳の版を出版した。 この地図は、新しい彫りではあるが、1750年のヴォゴンディの地図と、地理的なまた地誌的な詳細は同一である。緯度経度の罫線は広くなり、右下の縮尺は、イタリアのマイル縮尺を加えるために改定されている。 この「世界地図帳」は、1784年以降、G・レモンディニによってヴェネチアで再版されている。 この精巧な地図は、18世紀後半におけるヴォゴンディ作品の広範な人気と影響を示すものである。

No.110
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 中国帝国、中国タタール地方および朝鮮王国。日本諸島を含む。 (CARTE DE L'EMPIRE DE LA CHINE, DE LA TARTARIE CHINOISE ET DU ROYAUME DE COREE Avec les Isles du Japon.) 」 
21×32(cm) 1780頃
【解説】: ボンヌはおそらく18世紀後半で最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。 アンドレによる魅力的な彫りで、地図にはバイカル湖、チベットから朝鮮、日本、北海道および北部フィリッピンの一部までの極東が図示されている。 日本の輪郭はヴォゴンディの1750年の日本の地図から描かれ、朝鮮はかなり大きく、また本州は太った短縮されたものである。北海道は蝦夷が島として示され、サハリンとカムチャッカはなお混同して描かれている。極東の魅力的な18世紀後半の地図である。

No.111
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 中国タタール地方、朝鮮王国および日本諸島 (TARTARIE CHINOISE, ROY. DE COREE ET ISLES DU JAPON.) 」 
35×23.5(cm) 1780頃
【解説】: ボンヌはおそらく18世紀後半で最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。 アンドレによって魅力的に彫られ、地図にはゴビ砂漠から満州、朝鮮、日本およびその北の島々が図示されている。 日本の輪郭は、ボンヌの多くのこの地域の他の地図と同様、ダンヴィルのタタールおよびアジアの地図から描かれている。しかし最も興味深いのは、北海道の奇妙な図形で、小さな島「マツァキ」(マツマイ)として、本州の北に図示されている。エトロフとウルップの2つの千島諸島は図示されているが、ロシア名の「ロノストレ」と「ジールーノリ」である。 18世紀後半の最も多作のフランス人地図作成者の一人による興味ある珍しい地図である。

No.112
クロウエ, J. B. L. L ( CLOUET, J. B. L, L'Abbe ) 

「 無題:中国帝国について、朝鮮について、日本について (Untitled: DE L'EMPIRE DE LA CHINE... RE DE COREE... DU JAPON.) 」 
56×31(cm) 1780頃
【解説】: この魅力的な中国および日本の小さな2折判の地図は、1786年頃パリで出版され、忠実にダンヴィルの輪郭を見本としている。 地図は、中国とその北の進貢国(属国)の地域、また北海道や南千島のある日本をデ・フリースの輪郭に基づいて図示している。サハリンはかなり北の方に細長い島とされている。地図にはほとんど地誌的な詳細はない。 最も興味のある地図の特徴は、中国、朝鮮、日本を描写した側面の文章(のパネル)である。 この地図は18世紀後半の当時人気のあった百科事典的な地図帳の1に出ており、これはラベ・クロウエによる出版である。

No.113
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 中国帝国、朝鮮王国および日本諸島。 (EMPIRE DE LA CHINE, RME DE COREE ET ISLES DU JAPON) 」 
21×32(cm) 1780頃
【解説】: ボンヌはおそらく18世紀後期の最も多作のフランス人地図作成者の一人であろう。彼の「携帯地図帳」や「百科事典地図帳」などの小型8折判地図帳は1780年代および1790年代には広く流行した。 アンドレによって魅力的に彫られ、地図は中国、朝鮮、および日本の極東を図示している。 ボンヌのこの地域を扱った他の地図と同様、日本の輪郭は、ダンヴィルの1737年のタタール地図、および後の1752年のアジアの地図から描かれている。これは18世紀に製作された群島の最上の輪郭の一つであろう。 ボンヌによって発行された極東地域のわずかに異なる多くの地図は、彼の作品が人気を持ち続けていたことを証明するものである。

No.114
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 中国帝国、朝鮮および日本諸島 (IMPERO DELLA CHINA COLLE ISOLE DEL GIAPPONE...) 」 
40×31(cm) 1784
【解説】: ヴェネチアで出版された1784年のザッタの「新地図帳」に、初めて発表された魅力的な中国、朝鮮および日本の地図である。 この地図は、海南島やマカオから北海道の南端まで広がっている。この地域の輪郭はダンヴィルの1737年と1752年の地図、およびル・ルージュの1748年の地図に基づいており、日本はおそらく18世紀の最も正確に描写されたものの一つである。この地図はザッタ、1785年の「新地図帳」に出ている日本地図と興味ある対照を見せている。こちらは、もっとずんぐりと太ったベランの1735-36年の地図とヴォゴンディの1750年の地図を踏襲している。 装飾的な表題の花枠は、花のデザインと孔雀を取り入れて、右下に見える。地図のデザインは、1762年にラットレが出版したボンヌ作成の地図と非常に類似しており、これが見本として使われたのであろう。

No.115
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 中国帝国、朝鮮および日本諸島 (IMPERO DELLA CHINA COLLE ISOLE DEL GIAPPONE....) 」 
40×31(cm) (1784)1795
【解説】: ザッタのヴェネチアで出版された1784年初版の「新地図帳」に発表された中国、朝鮮および日本の地図の重版で、1795年刊行の魅力的な地図である。 この地図は1784年版と、表題の日付の変更以外は、全ての点で同一のものである。

No.116
ザッタ, A ( ZATTA, Antonio ) 

「 日本帝国 (L'IMPERO DEL GIAPON...) 」 
40.5×31(cm) 1785
【解説】: 18世紀後半で最上のイタリア地図帳の一つであるザッタの「新地図帳」の第14巻に発表された魅力的なイタリア地図の非常に立派な一例である。 ベランとドゥ・ヴォゴンディの輪郭から忠実に複写され、日本諸島は以前の描写と比ベより北東に湾曲している。ベランとドゥ・ヴォゴンディの地図の聞を取った妥協の証しとして、ザッタはヴォゴンディの本州の北端の湾曲した北の湾の輪郭を複写したが、その他のほとんどの点では、ベランを踏襲した。 7つの地方区分は、従来からの66地域と同じ様に明確に印されている。 魅力的な表題の花枠は完全なオリジナルの色彩で、適切な東洋のモチーフと装飾と共に左上に見える。

No.117
作者不明 ( Anonymous ) 

「 中国帝国、日本諸島および朝鮮を含む (L'EMPIRE de la CHINE avec les Isles DU JAPON et la Coree.) 」 
25×18(cm) 1785頃
【解説】: パリで1785年頃に出版された魅力的な小さな銅版の中国と日本の地図。 地図は中国と日本の情報源と輪郭を、ダンヴィルの地図から取り入れ、日本の3つの主な島はどれも地図の極端に右側に図示されている。しかし東北地方は短縮され歪められている。これはおそらく彫工が島々を地図の枠内に収めようと努力したせいであろう。 表題は魅力的ではあるが、やや荒っぽく彫られた花枠の中で左下にあり、中国人高級官僚が手にキセルを持ち、パラソルの下で小鳥を腕にのせている図がある。

No.118
クック, キャプテン J ( COOK, Capt James ) 

「 南太平洋の南部の地図 (CARTE DE LA PARTIE SEPTENTRIONALE DE LA MER DU SUD...) 」 
37×23.5(cm) 1785頃
【解説】: このフランスの海図は、18世紀後半のフランスの航海編纂書物に収められており、クック隊長の3度目の航海と、また1779年2月ハワイにおける同隊長の死後、クックの後を継いだ2人の司令官と乗組員の探検の航跡を示している。 地図は1778年の3月から9月までの北西海岸探検の前半部分の重要な発見を示している。クックはブリティッシュコロンビアの一部、アラスカの入り江、およびアリューシャン諸(列)島を海図に記し、そしてベーリング海峡を危険を冒して航行した。冬になってハワイに戻って、彼は1799年2月、原住民に殺されるという悲劇で終わった。探検の指揮は先ずクラークに、ついでゴアに任され、探検はカムチャッカおよびアジア側のべーリング海峡の海図を記して1779年7月に最も北の緯度に到達した。日本の北の海岸は1779年の冬に水路が測定された。 クックの数度の航海に対する広範な人気と影響を示し、また北太平洋の地図製作を改定させたクック最後の探検の強い影響を示すものである。

No.119
作者不明 ( Anonymous ) 

「 新所見による日本諸島および朝鮮を含む中国帝国 (L'EMPIRE de la CHINE avec les Isles DU JAPON et la Coree Assujetties aux nouvelles Observations.) 」 
26×20(cm) 1785頃
【解説】: パリで1785年頃に出版された魅力的な小さな銅版の中国と日本の地図。 中国と日本西部の一部の輪郭はいずれも、この地域の同時代の他の地図と比べて、異常にぎざぎざの出入りが多い。 地図は中央アジアから朝鮮そして、日本の一部までである。九州、四国、本州西部は江戸までしか描かれていない。表題は左下に小さな花綱の花枠の中にある。 魅力的で小さな18世紀後半の銅版である。

No.120
ボンヌ, R ( BONNE, Rigobert ) 

「 日本諸島を含む中国帝国地図 (CARTE DE L'EMPIRE DE LA CHINE AVEC LES ISLES DU JAPON...) 」 
21×32(cm) 1786
【解説】: この魅力的な極東の銅版地図は、多作のフランス人地図作成者であるボンヌ (1727-1795年)によって、おそらく彼の最後の地図帳となった1787-88年出版の「百科事典地図帳」に発表された。ボンヌによって極東のこの地域は6枚以上描かれたが、これはそのうちの1枚である。 地図は中国東部の海岸と、台湾、朝鮮、日本および北海道の一部を図示している。日本の輪郭は、ボンヌの多くのこの地域の他の地図と同様、ダンヴィルの初期の輪郭を踏襲し、朝鮮は実際より大きく、日本は18世紀に作成された物の中では最も精緻で正確な輪郭の図形である。興味深いのは、ボンヌは本州の北に島を描いているが、蝦夷としてではなく、「マツァキ」としているが、おそらくはマツマイのなまりであろう。