西洋の日本観

26. ケンペル 『廻国奇観』 1712年  

26. ケンペル 『廻国奇観』 1712年
KAEMPFER, Engelbert. Amoenitatum exoticarum politico-physico-medicarum fasciculi V, quibus continentur variae relationes, observationes & descriptiones rerum Persicarum & ulterioris Asiae, multâ attentione, in peregrinationibus per universum orientem, collectae. Lemgoviae, typis & impensis Henrici Wilhelmi Meyeri, 1712.
/ 4to. Pagès 375; Cordier BJ 411; Landwehr 529.


26. ケンペル 『廻国奇観』 1712年


 ドイツ北部の小都市レムゴ出身の医師、エンゲルベルト・ケンペルはリューベックのギムナジウムからクラカウ大学へ進み、さらにケーニヒスベルクで薬学を修めたのちウプサラ大学で研鎖を重ねました。スウェーデンでロシア・ペルシャ駐在書記官に任命され、赴任しますが、このときの地理・博物研究は後年の『廻国奇観』に収められることになります。彼はここからグルジアでオランダ船医となり、1689年ジャワに、そして1690年には日本へと来航しました。二年余の滞在ののち、1694年オランダヘ戻り、さらに故郷レムゴのリッペ伯フリードリヒの侍医として余生を送っています。

 『廻国奇観』はケンペルの生前に刊行された唯一の著書。ペルシャに関する報告に始まり、日本の植物の記述に至る五部から構成され、製紙技術や茶についても詳しい紹介を含んでいます。また、椿の図譜はこの植物を初めて西洋に知らせたものでもあります。本書はリッペ伯フリードリヒ・アドルフに献呈されており、タイトル真裏面にその銅版肖像が刷られているものがごく稀れに見受けられます。

 ケンペルがこの世を去ったのは『廻国奇観』の刊行から四年後、1716年のことでした。この本のなかでしめされていたさまざまな計画中の著作は、未発表のまま残されました。しかしイギリスの蔵書家ハンス・スローンはこれらケンペルの遺稿をすべて購入し、その中から完成した著作として上梓したのが『日本誌』です。ヨハン・カスパー・ジョイヒツァーが原稿を英訳し、1727年に刊行されると日本に関する最も信頼すべき記述として、ただちにフランス語訳、オランダ語訳が登場しました。原語(ドイツ語)で刊行されたのは1777年から1779年にかけてのこと、これは著者の甥が作成していた写本とスローンの購入から洩れていた自筆草稿のひとつにもとづいてクリスティアン・ドームが編纂した版です。

邦訳:今井正訳『ケンペル日本誌』(東京・1973) (291/N71/二階保存庫)