PERRY, Matthew Calbraith. Narrative of the expendition of an squadron to the China Seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of commodore M. C. Perry. Compiled from the original notes and journalsof Commodore Perry and his officers, at his request, and under his supervision, by Francis L. Hawkes. Washington, 1856./ 4to, three volumes. Pagès 620 ; Codier BJ 513.
1853年(嘉永六年)浦賀に来航したペリーの「黒船」は、いうまでもなく鎖国太平の日本を揺るがす大事件でした。下田・函館の開港などを盛り込んだ日米和親条約の調印など、日本の開国への第一歩をしるしたペリーはしかし、ただやみくもに日本へ出航した訳ではありません。彼は来航以前、日本についての周到な研究を重ねており、それはホークスが編集した公式報告書『日本遠征記』の第一巻・序論に集約されています。
ペリーは遠征にあたって、当時最も日本を熟知していたシーボルトの協力を得ようとしたとも推測されます。少なくともシーボルトの方では六箇条の献策を書き送っているものの、おそらくは意見の相違から、最終的には協力はなされませんでした。シーボルトはペリーの成功を見て1854年、Urkundliche Darstellung der Bestrebungen von Niederland und Russlandと題するパンフレットをボンで刊行し、日本開国の功績はアメリカではなく、むしろオランダとロシアにあると論じました。ホークスはこれに対して、ペリー自身はシーボルトの献策すら知らなかったと述べ、この老ドイツ人の傲岸さを批判しています。
ペリーの遠征に随行した画家、ヴィルヘルム・ハイネは1827年生まれのドイツ人。1849年ドレスデン蜂起に関与したためアメリカヘ逃れ、エフレム・スクワイアーのために中米の博物学調査に赴いています。ハイネはみずから志願してペリーの艦隊に乗船し、彼の手になるスケッチはその報告書にも採用されています。ハイネ自身もこの航海の記録を執筆し、これはホークスの報告と同じ1856年に刊行されました。
邦訳:土屋喬雄・玉城壁訳『ペルリ提督日本遠征記』(部分訳、東京・1935-36)
中井晶夫訳『世界周航日本の旅』(抄訳、東京・1983)