HEINE, Wilhelm. Reise um die Erde nach Japan an Bord der Expenditions-Escadre unter Commodore M. C. Perry in den Jahren 1853, 1854 und 1855, unternommen im Aufrage der Regierung der Vereinigten Staaten. Deutsche Original-Ausgabe von Wilhelm Heine. Leipzig, Hermann Costenoble, 1856. / Large 8vo, two volumes. Pagès 624.
1853年(嘉永六年)浦賀に来航したペリーの「黒船」は、いうまでもなく鎖国太平の日本を揺るがす大事件でした。下田・函館の開港などを盛り込んだ日米和親条約の調印など、日本の開国への第一歩をしるしたペリーはしかし、ただやみくもに日本へ出航した訳ではありません。彼は来航以前、日本についての周到な研究を重ねており、それはホークスが編集した公式報告書『日本遠征記』の第一巻・序論に集約されています。
ペリーは遠征にあたって、当時最も日本を熟知していたシーボルトの協力を得ようとしたとも推測されます。少なくともシーボルトの方では六箇条の献策を書き送っているものの、おそらくは意見の相違から、最終的には協力はなされませんでした。シーボルトはペリーの成功を見て1854年、Urkundliche Darstellung der Bestrebungen von Niederland und Russlandと題するパンフレットをボンで刊行し、日本開国の功績はアメリカではなく、むしろオランダとロシアにあると論じました。ホークスはこれに対して、ペリー自身はシーボルトの献策すら知らなかったと述べ、この老ドイツ人の傲岸さを批判しています。
ペリーの遠征に随行した画家、ヴィルヘルム・ハイネは1827年生まれのドイツ人。1849年ドレスデン蜂起に関与したためアメリカヘ逃れ、エフレム・スクワイアーのために中米の博物学調査に赴いています。ハイネはみずから志願してペリーの艦隊に乗船し、彼の手になるスケッチはその報告書にも採用されています。ハイネ自身もこの航海の記録を執筆し、これはホークスの報告と同じ1856年に刊行されました。
邦訳:土屋喬雄・玉城壁訳『ペルリ提督日本遠征記』(部分訳、東京・1935-36)
中井晶夫訳『世界周航日本の旅』(抄訳、東京・1983)