西洋の日本観

42. シーボルト 『日本』 1832年

SIEBOLD, Phillipp Franz von. Nippon. Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schtzlandern : Jezo mit den sudlichen Kurilen, Krafto, Koorai und den Liukiu-Inseln, nach japanischen und europaischen Schriften und eigenen Beobachtungen. Leyden, bei dem Verfasser ; Amsterdam, bei J. Muller & Comp,; Leyden, bei C.C. van der Hoek ; gedruckt bei J.G. La Lau, zu Leyden, 1832. / Large 4to, seven parts bound in six volumes. Pagès 533 ; Wenckstern p.11 ; Cordier BJ 477-8.



 シーボルト 『日本』 1832年


 十九世紀における日本の最もすぐれた理解者であるとともに、日本の文化史にも大きな影響を及ぼしたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの主著のひとつ。  シーボルトは南ドイツのヴユルツブルク出身、医学を学んだのち一時期開業していましたが、東洋研究を志してオランダに赴き、東インド会社にはいりました。1822年九月ロッテルダムを出航し、ジャカルタで陸軍病院に勤務したのち、翌年出島商館の医師として長崎に到着しています。二十六歳のシーボルトはただちに博物学の調査を開始するとともに、医学者として多くの蘭医の指導にあたりました。長崎郊外に鳴滝塾が開設されると、高野長英ら、さらに多くの優秀な門人を集めて教授する一方、日本に関するさまざまな分野のレポートを門人に執筆させており、これらはのちの著書に活用されています。

 五年間の任期をおえて帰国するばかりのシーボルトの荷物から、禁制品の日本地図などが発見された、「シーボルト事件」は日本の蘭学研究にとってもぬぐい難い汚点をのこしましたが、彼は1830年にオランダヘ帰国すると、持ち帰った多数の資料をもとに日本研究に専念しています。

 シーボルトの精力的な研究の成果は三部作ともいわれる『日本』、『日本動物誌』Fauna Japonica, 『日本植物誌』Flora Japonicaなどによってヨーロッパに紹介されました。この三つの主著が生前すべて未完成のまま残されたことは、シーボルトの研究の全容が容易に把握しがたい原因ともなっていますが、純粋な博物学研究である Fauna, Flora に対し、Archiv という副題をもつNipponは地理、歴史・宗教、言語から政治・経済・農業にいたる広範な分野を網羅しており、ヨーロッパの言語で記された日本に関する空前の包括的論考です。

この著作は1832年から分冊で刊行され、1853年までに二十分冊が予約購読者に頒布されました。しかし第七部の『琉球誌』後半や『蝦夷誌』など、印刷はされながらも公刊に至らなかった部分もあります。1866年のシーボルトの死後、彼の著作の売れ残りを一括して購入した英国の古書籍商が本書の内容を整理して1869年(明治二年)に再発行しました。展示本はこの再発行本です。明治以降日本に所蔵されるようになった『日本』の初版本は、したがって再発行本がほとんどであり、たとえば東洋文庫所蔵のアーネスト・サトウ旧蔵書も同様です。

邦訳:中井晶夫ほか訳『日本』(東京・1977-79) (291/Si2)